絵の具が色彩に生れかわる時

コバヤシ画廊で野沢二郎展を見て来ました。作家の教え子さんによる紹介ページが作られているので参照してください。

油絵の展示です。会場正面に120号のキャンバス、右手に300号の大きな作品、左手には2つの作品の中間くらいの大きさの作品が並んでいます。また、会場奥のバックヤードには、小品が並んでいます。
どの作品も、若干白を混ぜられて明度が上がり、彩度が落ちて不透明になったローアンバー(茶褐色)の絵の具の上に、彩度が高く、植物油によるツヤをもった黄色がのせられています。画面内で大きなかたまりとして見える黄色のパートは、その中心部では比較的平滑な絵肌となっていますが、周辺部では点々と粗いタッチを見せはじめ、ロ−アンバ−の絵の具の上に散ってゆきます。全体に、奥に引く暗部から、明部が強く前に出ようとする画面構成で、茫洋とした空間を感じさせます。


ここで注意しなければならないのは、黄色いパートの「明るさ」が、いわゆる黄色という絵の具の「性能(スペック)としての明るさ」だけではない''輝き''を感じさせるところです。もちろん、キャンバスにのった絵の具の物質的組成が変化しているわけではありません。あくまでそれは、工業製品として製造されているチューブから出されて乾燥した絵の具にすぎません。しかし、野沢二郎展の作品は、黄色い絵の具が光りを反射しただけの明るさとは違った「質」を獲得しています。この「輝きの質」、絵の具が絵の具ならざる物に変容して見えてくるその質のみなもとは、恐らくこの作品の絵の具層に織り込められた、複雑な時間=工程によるものだと思います。


この作品は、暗い色に明るい色を乗せるという、言ってみればごく単純な構造によってなりたっていますが、画面に刻印された無数のタッチの痕跡は、このシンプルな絵画を描くために、作家が何度も絵の具をのせ、あるいは削りながら、果てしない試行錯誤をくり返していることを示しています。この作品群はスキージという、シルクスクリーンを刷るときの大きな「ゴムべら」を加工したものやペインティングナイフによって制作されているそうですが、そのことと画面上のタッチから推察すると、強い圧力とともに画面に押し込められるようにのせられた絵の具が、乾燥する直前にさらにその上から絵の具をのせられ、削りとられ、生乾きの絵の具が新しい絵の具と微妙に混ざりあいながら、長い時間をかけて画面上に堆積して、この作品を作り上げていると考えらます。


明るい絵の具と暗い絵の具というシンプルな構造は、その繰り返される「描く」という行為によって一度揺るがされ、解体され、改めて再構成されています。そしてそのように改めて練られた色彩の位置は、暗部が奥、明部が前といった単純な話ではない、微妙にズレた位置を得ます。同時にその工程=時間が、チューブから出された絵の具というモノを、描かれた「色彩」として生まれかわらせているのです。


この、絵の具−色彩の「生まれかわり」、第二の誕生を生み出すために、野沢氏は「何度も描く」という、極めて愚直な方法を選んでいます。メデュウムの添加やイリュージョンの導入といった手段によらず、明瞭なはずの色価(バルール)が混乱してくるくらい、画面内部に作家の身体が入り込むように絵の具をのせ、力を加え、様々な「絵」が浮かんでは埋もれて行きながら、いつしか「ただの絵の具」が「絵の具ならざるものとしての色彩」に変容してゆく。その、もう一度生まれ直した色彩の輝きが得られるポイントを探りながら、野沢氏は、無数の/たった一つの絵画と、道行きを共にしてゆくのです。


この展覧会に展示されている、三点の作品が極めて豊かに見えるのは、その背後に無数の絵画が積み重なっているためであり、その無数の絵画が、なおかつたった三点の作品に凝縮されることによって「絵の具の明るさ」から離れた、ある抽象的な輝きを、画面内に宿したためだと思われます。この「宿り」を生成した野沢二郎氏の「時間」は、けして閉じられた、密教的なものではありません。過去に、絵の具と言う物質に触れ、それを紙やキャンバスなどに「のせた」経験、すなわち絵を描いた経験のある人ならば、イメージ可能な「時間」であるはずです。そこには、見た事もないようなアクロバティックな技法や、理解を拒絶するような難解な方法はありません。そして同時に、一度そのようなイメージを持った人ならば、この作品に埋込まれた時間の芳醇さ、描くことと見ることの無数の往還の果てに獲得された強度をも感受するのではないでしょうか。

●野沢二郎展