宮下ちえ展

ギャラリー山口の地階スペースで、宮下ちえ展を見てきました。
陶による立体の展示です。会場に入って正面の壁面、高めの場所に、縦に長細い直方体が24本*1等間隔で並んでいます。色は黄色味を感じさせるアイボリホワイトで、それぞれに若干歪んでおり、もろい石材のようなテクスチャをしています。


床の中央から右にずれた位置には、大きなブロック様のものが積まれていますが、一部が崩れており、近付いてみると繊維状のものが見え、乾燥した堆肥のようにも見えます。色は明るいかっ色で、焦げ跡やムラがあります。会場左には壁に接して、崩れが大きく原形の直方体がようやくわかるような状態の作品があります。色は緑がかっています。


会場にいた作家ご本人に技術的な面をお教え頂きました(僕自身は陶芸の知識がないため、不正確な聞き取りである可能性があります)。

  • 粘土に繊維質を混ぜて焼いている。
  • 焼く過程で繊維質は燃えてしまい、残るのは繊維の跡を残した土だけである。
  • 粘土は乾燥させず、湿った状態でガス窯で焼く。
  • そのため、崩れや焼きむら、こげができる。

この会場では、まず展示されているモノの質量がよくわからず、混乱します。正面壁面にある長細い直方体は硬質な質感で白く乾いた表面をしており、高い場所に並べられていることから、石材かと思わせると同時に干菓子のような軽みも感じます。会場床に置かれている2作品のうち、中央近くにあるブロックは大きさもあり、平たい形態で積まれていることから一見重さを感じますが、近付いてみると繊維質の塊であるように思われ、実は極端に軽いのではないかという印象を与えます。壁面に接している崩れが大きい作品は、一部がさらさらの土になっており、色のせいで乾燥した植物も連想させることから、一個の個物としての重量が想定できません。


窯による焼き、しかも通常の陶器のように乾燥させてから焼くのではなく、湿った土の状態で焼くことでおきる変性(こげ、崩れ、ゆがみなど)が、作品に複雑な様相を与え、そのマテリアルを観客に特定させません。石にも、土にも、繊維質にも見えるそれは、見ただけでは素材を確定することができず、硬そうにももろそうにも見え、重そうにも軽そうにも感じられます。そして、実際に手にもったら完全に崩れてしまうのではないかという恐れから、具体的に触れて持ち上げ、その質量を確かめてみることがためらわれます(というより、美術展の慣例/制度としてそのような行為は禁止されています)。


当然ですが、もろそうに見えながらも、壁面に掛けられている作品はそういった展示に耐えるだけの十分な強度を保っていますし、床に置かれたものも、その崩れ方はコントロールされています。展示まで含めて、全ては作家の意図の中にあることは確かだと言えます。


宮下氏は物質を変性させ、その在り方を、「それが何か分かりそうで分からない」「見た事がありそうで見た事がない」不思議な状態に作り替えます。その結果、モノは観客の中の記憶、土や石、植物といったもののイメージからずれ、視覚から喚起される触覚(の記憶)や重量などの身体感覚(の記憶)を様々に呼び起こしながら、そのどれとも結びつきません。この作家は「土を焼く」という手法を、陶芸という強いカテゴリーの枠組みとは無関係な位相で捉え、物質に(どのような事前のイメージにもよらず)出会い、物質の変性/生成の経過を確固とした技術で確かめながら、抽象的な存在として立ち上がる在り方を提出しているように思えます。


おそらく宮下氏は、今後もしばらくは土を焼くという方法に沿った探究を続けていくと思えますが、何かのきっかけで、「土」や「焼く」といった枠組みから逸脱することもありうる、視点の深さと広さを持っているように感じました。


●宮下ちえ展

*1:作家さんからの指摘で修正しました。