雪明かり

新潮5月号に掲載されている古井由吉の「雪明かり」は、一読するとその語り口の所々に不思議な混乱を持っているように思える。それは、たとえば、定年を間近に控えた主人公・望月が月曜の夜明けに目ざめ、再びまどろもうとした時の、次のような箇所に現れる。

 この季節にはまだ何の樹とも知れぬ枯れ木だが、また始まる一日を謝辞した目には、花も咲くだろう、とカーテンの端から白み出した窓へやった目をまたつむると、瞼の内に花ではなくて、滴の玉がつぎつぎに浮かんで、刻々と明けていく雨の朝の暗い光を集めて、枝から枝へ鳴り交わしているのに、人は見ていない。人は見ていない、と繰り返してむっくりと起きあがる自分を思った。晩婚の長女に産み月が近づいて、具合がすこし悪いというので、金曜の夜から妻はそちらに泊まっている。これでも五時間あまり寝ていることだから、コーヒーでも飲んですぐに出かけて、娘のところに立ち寄ってみるか、とまだ目をつむったまま、下りの電車の、がらんとした車内の隅で居眠りをしている年寄りの姿を眺めるうちに、田舎道のむこうからせかせかとした小足で近付いてくる父親に出会った。
 娘のところに、孫が産まれたので、祝いに行くという。その二十何年も昔に五才で亡くなった、望月の知らぬ姉のことだった。

この後、一行の空白のあとに、場面は望月が若い頃、望月の父が存命ながらも卒中の後で徐々に恍惚としてきた頃の追憶へと移動する。読み進めていくと、この追憶の中の望月の父の年齢まで、現在の望月がもう間も無いこと、望月が父と母の間に遅くできた子供だった事などが判明してくる。望月の(晩婚の)長女の出産後の不安と、望月が知ることのなかった早死にの姉の存在が交錯する。


 引用箇所の文の「わかりにくさ」は、もちろん極めて意図的なものだ。あやふやなまどろみの中で、自分を父に投影しながら、いつしか父の追想、しかも痴呆を進行させつつあった父を思い始める望月の、意識の錯綜がそのまま記述されている。というよりは、この文を読む読者に、望月のまどろみの中での「思い出し」、まるで夢の中に溶け入っていくような時間と同じ経験を追走させる。


こういったシークエンスは、この短編小説の中で何度か現れる。場面の変化=望月の「思い出し」のレイヤーの移動がある時、微妙に不思議な混乱が顔を出す。新潮の紙面でわずか12ページのこの作品は、以下のようなレイヤーで構成される。

  • 定年真際の主人公、現在の望月
  • 望月の父が存命中だった頃の、父の実家(田舎)
  • 望月の父の面倒を見ていた従姉
  • 望月の父
  • 望月の父に感知されていた、先に他界した望月の母・姉を含んだ死の世界(裏山)
  • 望月が感知し始める死

こういった世界が、一見混乱と見まごう緻密な言葉によって橋渡しされ、階層的に積み重なりながら、いつしかこの「雪明かり」という作品は、それ自体が望月にとっての恍惚としながら死後の世界を垣間みせる父のような存在として立ち上がってくる。読者は「雪明かり」に対して、単に読者であることができない。父と自分を重ねていく望月の後を追うように、そのような望月と読者は重ね合わされ、茫洋としながら見えてくる死、その予感のようなもの(夢?)に巻き込まれていく。少なくとも、そのような「夢」が立ち現れてくるような言葉を、古井由吉は古典技法によるタブローのように徹底して構築していることは間違い無い。


望月と父は従姉を媒介として繋がっている。父の実家から離れて暮らしている望月は、父の事を血縁によって禁じられた恋愛関係にある従姉からの手紙を通じて知らされる。たとえ実家に帰っても、半ば望月の事を忘れようとしているかに見える父とは直接的な交流は持てない。日頃、実家の家族から痴呆の進行をきづかれないように、過剰なまでに親身に世話をしている従姉を介してしか、望月は父の見ている世界を理解することはできない。


同様に、と言っていいと思うが父は「裏山」にある死の世界を、五才で早死にした娘、すなわち望月の姉によって媒介されている。声を発する女達がいる「裏山」に、娘=望月の姉を媒介せずに行こうとすると、既にそこにいる望月の母(父の妻)が父の首を締めて父を殺そうとする。だから、父は娘=望月の姉が自分を迎えに来るのをおとなしく待っている。


この「雪明かり」で、望月にとっての父/父にとっての裏山、すなわちこの世とあの世を媒介するのは共に「姉」(あるいは血縁の女性)だと言える。従姉は望月の1つ年上で血の繋がりがある。父にとっての早死にした娘は、それを追想する望月にとって姉であるのと同時に、父にとっても、自分より先に裏山(死)におもむいた「先導するもの」としてある。死=裏山は望月の父において、ただ狂おしい「おんな」という妄念が渦巻く場だ。そこにただちに向かおうとすれば、妻、すなわち血の繋がりのない「おんな」が首を締めにくる。だから父は望月の姉を待ちつづける。そして、死をそのように待つ父を年上の従姉との関係を通して知る望月は、間もなく60になろうとするとき、晩婚の長女の出産後の不安を一つの契機に、そのことを思い出す。


ここで現れる「姉」というモノは、父の痴呆の中での妄想であるだけでなく、望月においてもなんら確かなものではない、極めて空想的なものだ。「雪明かり」で望月が語ること自体が古い追想で、どこまで本当にあったことなのかは判然としない。そもそもこの小説は、60才の望月の「夢」であるかのように記述されている。とりあえずは描かれた望月と従姉の関係も、実際にあったとされる交わりは二度のくちづけだけで、他はすべて望月の頭の中での事だし、何より従姉が望月に惹かれる契機がまったく書かれていない。ただ全面的で一方的な肯定的感情を、望月は受けているだけだ。


この「雪明かり」で、いわば優しいもの、受け入れてくれるもの、あるいは(異)世界と自分とを繋げてくれるものとして存在する「姉」(あるいは血縁の女性)は、巫女とか神秘的な母性の代替といった概念とはまったく関係がない。むしろそれは、圧倒的な「受け入れ」の不在、媒介(してくれる)者の不在から逆算的に導き出された幻想だ。だから、この「雪明かり」という作品には、どこまでいっても「受け入れられる感覚」が欠除していて、読み始めから読了まで通して、孤立しか描かれることはない。追想の中の望月の父は、惚けていく中で世界との繋がりを喪失し、自分がどこにいるのか、自分の居場所はどこかまで失おうとしている。それは居候している実家の夕飯を、一心に食べることでしかしがみつくことができないような切実さとしてある。父の幻想は、普通の人には見えないが死期の近付いた老人にだけ見ることができる「異世界」では実は無い。単に世界とのつながりを失った老人の孤立が逃げ場を求めて作り出した妄想にすぎない。望月にとっての従姉も、そもそもこの世では結ばれようのない血縁者なのだし、「再会」するには死後の世界を待つ他は無い。というよりは、60代という父の死んだ年齢にさしかかりつつある老人・望月が、父が先立った娘を妄想せざるを得なかったように、夢に見ざるをえなかったものなのだ。


だから、「雪明かり」に描かれているのは、異世界を見い出した父でも、無根拠に愛情を示してくれる異性との恋愛事でもない。ようするに居場所をかりそめにでも得る話ではない。一人の人間が衰え、世界から切り離され始めた中で(かつての父と同じように)孤立を開始した時に、そのどうにも行き場のない/居場所のないという事態を受け入れざるを得ない時に、不可避的に父を反復してしまうということで、しかもその反復によって、孤立は解消などせず、ただその凄まじさを増すばかりなのだということだ。


そのような凄まじさを、古井由吉は「言葉」を書くという事だけで淡々と浮上させていく。冷静で工芸的なまでにテクニカルな言葉の積み重ねが、いつしか「絶望」や「深刻さ」「内面の傷」などとは無関係な、“単なる孤立”というものを過不足なく描く。単なる孤立には何も付随せず、孤立は孤立であるばかりだ。もっと踏み込んで言えば、古井由吉は孤立を描こうとすらしていない。厳密に、正確に言葉を列ねていった先に、結果的に「単なる孤立」が立ち上がったにすぎない。しかし、そのように現れたものの絶対的な力は、思わずこの作品が分厚い雑誌の中でほんのわずかしか占めない、薄いものであることを忘れさせてしまう。このささやかさが、あまりにも言葉が、その言葉の「数」が正確無比であるからだと気付いたとき、「単なる孤立」はこの小説の主題ではなくその存在のしかたそのものなのだと思い当たる。その寒々しさは「傑作」でも「問題作」でもない“単なる小説”が存在することの貴重さの証だ。