写真集

川内倫子のCuiCuiが素晴らしい。

13年撮り溜めてきたという、川内氏自身の家族の記録なのだけれども、この写真集で川内倫子は完全に超越的なテーマを追い掛ける「大作家」になりつつあると思える。この写真集で見る事ができるのは、近親者や故郷、川内氏の身の回りの風景といった「身近」なものの親和性ではなく、そういったものの中にぱっくりと開いた裂け目だ。id:eyck:20040511で書いた「重さを包容する明るさ」はより深度を増し、家族というもが崩れ去っていく時に沸き上がる違和感や異形なもの、そしてそこへのどうしようもない愛憎といったものがクールに正確に切り取られている。国際的な評価の高まりも、けっして村上隆みたいな「東洋の奇妙なモノ」とかいうレベルではない、もっと高い水準での受容ではないか。


そしてこの作家の「光」は、日本国内の湿度や気象条件の元でもっとも普遍性を得る事も、この写真集でわかる。川内氏は以前、イラク戦争の後、雑誌編集者とイラクに渡って当時の現場を撮影していたが、この時彼女の目の前には彼女の基礎テーマである「生と死」がダイレクトにあったにもかかわらず、その現地の光線を自身のものとはしきれていなかった。それにくらべるとCuiCuiでの光りの捉えられ方は、自分のものとして自在にコントロールしているという状態を超え、逆に在る種の息苦しさを感じるような、コクというか濃度を持っている感じがする。やや想像を広げてしまえば、このコクは、川内氏の条件そのもの、川内氏を育ててきたあらゆるものによって、彼女の外側から否応なく彼女を形作ってきた光りなのではないかとまで思われ、ほとんど圧倒されてしまう。このオリジナルプリントが国内で見ることができるように願う(というか国外でしか見られない、なんてことになるとは思えないのだけど)。


一方、僕のよった本屋(六本木ストライプギャラリーの地下の書店)でCuiCuiの隣に並べられていた新津保建秀の「記憶」があまりに酷いので唖然とした。まさか今どき真顔で「高校生女子の色気」なんていう、昭和40年くらいのオッサン的視点で写真集を1冊企画して刊行してしまい、まぁそれが単なるソフト・ポルノの販路で気持の弱った精神的オッサン達向けに消費されていくなら、わざわざ見たいとも思わないもののあえて悪口を言う気にもならないのだけれども、NADiffでのオリジナルプリントの展示といい本の体裁といい書店での扱いといい、どうやらこれは「アート」の文脈で語ってもらいたがっているらしいと気づいて心底頭に来た。こんなもんにバカにされる程「アート」という言葉は死んで腐っているのだと思うと笑うしかないが(というなら普段ならふーん、で終わりだが)、笑いではすまず怒りに転化したのは、まごう事なく大文字のARTと化そうとしているCuiCuiと同一平面状にこの「記憶」が平積みで置かれていたという理不尽さ故であり、もう日本中の書店でこの二冊を同列に置くな、正しい制度的差別待遇を行うべきだと言って回りたい衝動にかられる。


モデルとなっている香椎由宇戸田恵梨香hanae*宮崎あおいに罪がないとは言えないと思う。恐らく彼女達あるいは周辺のスタッフも、単なる「高校生女子お色気写真集」というキャッチフレーズでこの企画が持ち込まれたのなら受けなかった仕事ではないかと思えるのだけど、それを受けてこの下品な写真集に出てしまったというのは、恐らく「アート」ということばに騙されたか「アート」で騙してやろうかといった心づもりがあったとしか考えられない。しかし出来たのはあくまで「高校生女子お色気写真集」であって、断じてアートのアの字もないものだ。ミドルティーンの時に篠山紀信にチャイルドヌードを撮らせて、その後ハリウッドでアメリカ人の喜ぶ「東洋少女」を演じてみせた栗山千秋くらいの開き直りと戦略性が彼女達には欠けていて、それは端的に知性の欠如と同義でしかない。当人及びスタッフはもう少し考えてしかるべきではないか。