毎日スパムメールしか舞い込まない僕のメールボックス(「初恵です、返事くれたよね?」「寂しくてごめんなさい」「一度連絡したいと思ってました」etc.)にもごくごく稀に普通のメールが届くことがあって、それがこのblogの読者だったりすると驚く。まずこんな文章が誰かに読まれているという事実がよく飲み込めない。トラックバックもそうはなく、ネットのコミュニケーションが苦手な僕は回線の向う側がうまく想像できない。


以前、「あんなに美術展を見ていて、自分の絵が描けるのか」と言われたことがあって、こちらにはどう返答しようか考え倦ねているうちに時がたってしまった。まず第一に僕は自分ではあまりにも作品を見逃しすぎていると思っていて、実際最近でも松濤美術館梅原龍三郎庭園美術館のアンソールや下薗城二・宮内理司展や文化遺産としてのモダニズム建築展や厳島神社国宝展やストーリーテラーズや、そういった比較的大きな展覧会やエポックメイキングな展示もことごとく見てはおらず、付け加えるなら都内のギャラリーでの多くの展示も取りこぼしている数の方が多い。「見た数」と「見る事ができなかった数」を比較すればどうしたって見ていない数の方が上回る。だからどうしたと言われるかもしれないが、小さな画廊に置かれている作品などは、1度見逃せば二度と目にすることは出来ないに決まっていて、それは大きな美術館の企画展でもそうなのだが、「現場で現物を見る」ことを基礎条件とする美術という分野にあっては決定的な機会損失で、いかなるフォローもききはしない。


もちろんこれはどうしても、というものは多少無理をしてでも足を運ぶし、しらみつぶしに銀座の街路を巡っていた大学入学したての頃とは比較にならなくても、相応の数の美術館や展示を歩いてはいると思う。だいたい1つのエントリを書いている背後には10やそこいらの「言葉にならなかった作品/展示」が控えているのが通常で、それがつまらなかったから書かないのだ、なんていう単純な事態であってくれればこちらも気が楽なのだけどそんな事はない。作品に言葉がおっつかずに書きはぐってしまうものやら、良いことはわかるものの何がどう良いのかさっぱり分からず、こちらの頭から溢れてしまった作品やら、良い/悪いの判断がつかずに途方にくれてしまう作品やら、果ては明らかにつまらないと見切ったものですら、作品の前から立ち去った直後に「お前の、たしかにこの作品を見てつまらないと判断した根拠はなんなのだ」と呪いのようにささやきかけてくるものまで出て来る状況で、そんな呪いを一度受けてしまうと、その前日になんとかこのblogに書いた「あの作品のここが良かった」という視点そのものが、その作品のもっと重要な何かを損なってしまった原因のように感じられ、僕はその作品の本来的に見るべき何事かを見失ったのではないかという恐怖が湧いて来ることになる。


こうなると「見た」と言っている作品ですら「実は本当には“見て”いないのではないか」という疑惑が否定できなくなってきて、だから、僕のこのblogは「いかに僕という人間が作品を見そこない続けているのか」というネガティブ極まりないlogの集積なのだと言えてしまう。上述の「あんなに美術展を見ていて」というフレーズに対しては口籠るより他に無い。


そんな落ち込みを振り切っても新たに作品を見に行くのは、単純にそれが面白いからで、今どきこの社会に作品を見ることより多少なりとも面白いことが一体どこにあるんだと思うし、それは多分作品を作ること以外にありはしないだろうということが「分かってしまって」いる僕としては、例えば僕にとって絵画は絵を描くように見る事でしか「見る」ことはできないのだし、絵を描くことはまさに描きつつある目の前のモノを「あの作品を見るように見る」ことによってしか先に進まないということは自明なので、絵を見る事と切り離された「描く」行為など想像できない。どだい、他人の作品を見た経験なしに絵を描くことのできる人がいるならばお目にかかりたいし、「他人の絵に興味はない」とか言っている人にかぎってとんでもないような「見た経験」を抱えていたりするものだ。そうでなくて、本気で「絵を見る」ことを無視して描かれる絵などもう絵とは言えない意味不明のモノでしかないだろうし、もちろん「誰某の作品にインスパイアされて作りました」なんて気楽な言葉と共に提出される浅薄なイラストレーションにも興味は持てない。


もちろん程度問題というのはあって、たった1回の「絵を見る」行為が決定的にある画家を支えることだってありうるだろうし(それにしたってこんな極端でロマンティックな話は信用しないけれども)、いくら絵を見ていたって、どうにも「見る」ことを流産してしまう事があるのは上で書いたとおりだけれど、結局絵を描く時に重要なのは「判断」で、一つのタッチなりストロークなりを刻んだあと、次の一手を決定づける「判断」は、理論とか思想とか社会状況とか市場のニーズとかに基づくようなことはありえず(そういう事を言う人は嘘を言っているのだ)、過去に見たなにがしかの作品の経験から下されていくしかない。そして程度問題というならば、確かに僕が絵を描く時に基盤にしているのは、今まで見て来たたくさんの作品達の、本当に言葉にならない、掛け値なしの暴力的なショックの反動とか余波であることは間違い無く、そういう見る事の経験の、かすかな上澄みの光りの中で絵を描いている時は、困難まで含めて恥ずかし気もなく幸福だと思えて、そんな幸福感の中で絵を描いているようなヤツはダメなんだと、忠告されようなことがあったとしても制作が止まるわけがない。少なくとも僕が去年行った転回/展開は、いままで描いて来た絵が、あきらかに「絵を見る」ことの積み重ねに応答できないと分かったからこそ行われたことで、その転回/展開は今でもずっと持続的に続いている。だから、「自分の絵が描けるのか」という問いに関しては、はっきりと「作品を見ているからこそ描けるのだ」と言えると思う。


と、いうわけで個展が決まりました。


●masuii R.D.R企画 永瀬恭一展

しばらく先の話しですが、とりあえず記事にしてしまいます。期日が近付いたら、ヘッダ部分に記載します。会期が短いですが、その代わり夜21:00までの開場を、ギャラリーの御好意で実現しました。川口という場所になじみのない方も多いかとは思いますが、新宿からも東京からもJRで28分程です。よろしくお願いいたします。


全体にこのエントリが勧誘スパムじゃねぇのかという突っ込みはナシの方向で。