引き続きフィリップス・コレクションの話。今日で最後にしようかと思う。気になる作品はもっとあったのだけれど、僕がパワー減衰中でもあり、打止めということで。


ボナールは僕が気にしている画家の一人なのだけど、今回の展覧会に来ていた「棕櫚(シュロ)の木」は、ちょっと違和感を感じた。サイズは縦114.3cm×横147cmで、画面上部に大きな棕櫚の葉がアーチを描くように右から左へのびている。画面下には植物に挟まれた女性がこちら側を向いて、手に果物を持っている。画面真中は遠景となる町並みと海がある。


やや濃い色の棕櫚の葉と、紫がかった影に入った女性に挟まれて、明るい陽射しを浴びた海と町が遠くに拡がる、というダイナミックな構図で、豊かな色彩が南国っぽい夏の空気感を感じさせる。この、光に包まれながらも解放感を併せ持つ作品は、ごく普通に良い絵だと思う。この絵が好きだ、という人がたくさんいても不思議ではないし、それを否定するつもりはない。僕が「棕櫚の木」に感じた違和感は、僕のボナールに対する先入観によるものかもしれない。少し考えてみる。


違和感の中身は何か、と考えれば、まず第一に「大きい作品だ」という点があげられると思う。僕はそんなにたくさんボナールを見ているわけではないけれど、川村記念美術館ブリヂストン美術館で見たボナールは、小品、あるいは中くらいの大きさの作品で、1辺が1mを超えるものはなかった(と思う。少し自信がないが)。この「棕櫚の木」は、それらの作品にくらべれば、あきらかに大きな作品で、しかもその物理的な画面サイズの大きさが、明暗の強い対比で広い距離感を発生させている絵の「内容の大きさ」と対応している。


このコントラストの落差も、僕の興味を惹くボナールとは異質な点だ。ぼくにとって魅力的なボナールは、むしろ明暗の幅という意味では狭く限定されている。ブリヂストン美術館の記事で取り上げた「海岸」は夕陽に染められた画面だったし、「ヴェルノン附近の風景」も、植物に挟まれた真中に遠景が拡がるという構図は「棕櫚の木」と同じながら、そこに明暗によるコントラストはない。


また、画面下の真中という位置に、大きく女性の顔が描かれている、という点も気になる。川村記念美術館の常設でみられたボナールの作品には(タイトルは忘れた)、農村のような風景に小さく人物が描かれている。その人物は表情が読み取れるような存在ではない。木や建物と同じように、要素の一つとしてある人物で、そもそも視線をこちらに向けていない。


この絵の「強さ」は、とても分かり易い。はっきりとした光、そしてその光を遮る棕櫚の葉の影の中でこちらに顔を見せる女性。明快なイメージが丁寧に定着されている。強いコントラストが観客の目を引き付け、強調された空間が観客を絵の中に誘い込み、こちらを向いた女性が観客の感情を転移させる。豊かな色彩も、丁寧な「塗り」も、全てがそのような「効果」に向けられている。「棕櫚の木」はイメージのひき起こすエフェクトに全てが捧げられていて、観客はそのイメージに巻き込まれていく。逆の言い方をすれば、この絵ではそのような観客が前提として「狙われている」。そこに僕の感じた違和感があると思える。


この絵は、ボナールとしては、間違い無く「力作」なのだと思う。画面サイズといい、隙間なく置かれた絵の具といい、バリエーション豊かな色彩といい、ほぼシンメトリーで安定した構図といい、丁寧さといい、とにかくボナールの頑張りがうかがえる。そして、上手いと思う。その上手さが、観客を、そしてボナール自身をも支配してしまっているように思う。僕が面白いと思うボナールは、けっして大きくない画面に、ひとつひとつのタッチが、時間をかけてもたもたと置かれていって、その積み重なりが、ある種のゆらめきとなっているような絵を描く人だ。そこにはボナールの試行/思考が現れていって、けして明解ではなくても、コントラストや「色数」とは違った種類の「豊かさ」がある。こういった画家が、ふと見せた「頑張り」「力作」が、何時の間にか「棕櫚の木」を単純なものにしてしまった気がする。「強い」絵を描きたい、「力作」が描きたいというのは、絵を描く中で僕もよく捕われる思いで、少し怖い。フィリップス・コレクションのデータを再掲しておく。


●フィリップス・コレクション展