フィリップス・コレクションの話を昨日に続いて書く。今日はセザンヌの「ローヴの庭」について書こうと思うのだが、ちょっと躊躇してしまうところもある。この作品はキャンバスの地が多く残された中にタッチが散在するような絵で、どうしても「抽象絵画を先取りした」みたいな書き方をしたくなってしまうのだけど、はたしてそのような見方が良いことなのかどうか、疑問を持ってしまう。


昨日のロダンの彫刻に関しての僕のエントリもそうなのだが、なにかしらの形で「現代との共通性」みたいなものを取り出してクラッシックの作品を考えることは、言ってみればそれぞれの作品の「一回性」みたいなものを消去してしまうような気がする。


ロダンなりセザンヌなりが先進的だった、みたいな言い方には危険性がある。彼等がなにかしら「正解」をもって、確信的に個々の作品を制作していたわけではない。そこではその度ごとの暗中模索が行われていた筈なのだ。そしてそのように作られた作品から「面白さ」を受け取った後の作家たちが、また彼等なりの暗中模索をその度ごとに行って来た、その連なりが一直線の「歴史」に見えてしまったとしたら、その時個々の作品を形成した、くり返し得ないものは消えてしまう。


しかし同時に、作品が作られた、まさにその時を様々な文脈や歴史を参照して正確に知ろうとすることもできるわけではない。要するに、今を生きている僕はなんら時間的優位性など持っていないし、今という条件の中で作品を見るしかない。わかりにくい言い方になるが、今作品を見ることの一回性を生きるしかない。


セザンヌの「ローヴの庭」は1906年頃描かれた油絵で、縦65.4cm×横80.1cmの大きさがある。画面の中に、緑、黄緑、ブルーグレー、黄土色、茶色といった色彩が、幅広く短いタッチで置かれている。各タッチは垂直、斜、あるいは垂直に入って左下へカーヴするもの、逆に右下へカーヴするものなどがある。


画面の周辺、および各タッチの間にはかなりの余白があり、キャンバスの地が露出している。画面中程には水平に置かれるタッチがあり、地平線あるいは水平線のように感知される。画面下にはこの水平な線が再びあらわれ、地面の段差のようにも思える。この二つの線によって、「ローヴの庭」はかろうじて「風景」であることを示している。水平線上、画面上のやや右よりのタッチは地面周辺におかれたものと比較するとややタッチが大きく、方向に混乱が見られる。その右にはくすんだピンクの色面が、絵の具を画面にこすりつけたようにある。


この「ローヴの庭」は、各タッチが風景から乖離し独自の関係性をもとうとしており、大きな面積を占めるキャンバスの地も、このような絵画内部での構築の一部としてあることから、最初に言ったとおり抽象絵画に接近している。このことは否定する必要のないことだけれども、しかしそれ故に、完全には抽象では無い事、あくまで風景とのつながりを失っていないことがかえって目立つ。そのことが一番感じられるのが地平線上、おそらく空あるいは雲かと推測される箇所のタッチだと思う。


二つの水平の線周辺の、地面にある個物を参照していると思えるタッチは始点・終点がはっきりしており、キャンバスの地を挟みながらカーブをみせたり垂直だったり水平だったりする筆致が、音楽的なリズムで置かれている。対して空・あるいは雲と思われる画面上方では、タッチはやや崩れを見せ始め混濁する。幅がやや大きくなり間に隙間がなくなって、互いに混ざりあうように見える。画面向かって右上のピンクの色面はタッチとすら言えなくなりつつあり、地上の明解さと対照的に見える。


セザンヌには空を描く事の困難があっただろうか。ポーラ美術館で僕が見た「プロヴァンスの風景」ではせりあがる斜面と草木が画面の大部分を占め、空は画面上部に狭く限定されている。また、グッケンハイム美術館所蔵の「シャ・ド・ブッファン近郊」では、地面と、画面上部を覆う樹木に囲まれて、画面中央にやはりせまく空が覗く。個物を元に視覚を探究していったセザンヌ、という見方をすれば、「空」は確かに謎としてあったのかもしれない。


空には面がなく、形態がなく、しかし無でもない。空を描く事は、「室内」から出たバルビゾン派から主要な課題であって、その困難がモネを起爆させたようにも思える。充満した大気が日光を散乱させている空、というような(いわば科学的な)捉え方によってモネは空を描いた。そのような捉え方は風景を全て光りに解体して、モネにおいてはなにもかもが空のようになっていった。セザンヌは空を解決しない。「ローヴの庭」においては、地平線は画面中程にあって、むしろ空は大きくとられている。


抽象絵画では空は解決されたのではなく、単に問題にならなくなっている。セザンヌは「ローヴの庭」で確かに空を見ている。その踏み止まりが貴重なのだ、という事にも危険性はある。セザンヌは、ただぎりぎりまで空を見ていた、としか言い様が無い。