昨日の記事は自分でいろいろと問題を感じたので削除した。御了解を。

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーでフィリップス・コレクションを見て来たので、いくつかの作品について書く。


ロダンの彫刻「姉と弟」は1890年の作品とされていて、サイズは高さ38.1cm×縦17.7cm×横15.8cmと記されている。台座に座った裸婦が小児を脚に載せ抱えているブロンズ像でそれほど大きくない。


まず感じたのは「バラバラ」な感じで、先に僕がブリヂストン美術館で見た同じロダンカミーユ・クローデル頭部像の「単一性」(id:eyck:20050713)とはまったく逆のものだ。何がバラバラな感じなのかといえば、裸婦の胴体と四肢、頭部、小児の体といった要素がそれぞれ対等な独立性を持っていて、各部分が緩やかに連合して全体を形作っているような印象がある、ということになる。


台座に座った裸婦はややしまって前傾する胴体を台座の上に載せ、そこから前方に伸びる両足は、胴体に匹敵するボリュームと存在感をもっている。右足はほぼ水平にあり、その上に小児を載せている。突き出た膝から再び後ろへ流れる足は台座のくぼみへ収まる。左足はやや下降しながら右足の膝の下へ入り込み、両膝は斜に並ぶ。この左足は右足よりもさらに大きく後ろに引かれる。右足に乗った小児はそこから裸婦の左半身へと伸び、小児の右手が裸婦の左肩に接する。また、裸婦の右手は小児の左脇のしたを支えている。


全体に、小児は裸婦の右足にどっしり乗ってはおらず、むしろこの上部で支えられ持ち上げられている。像の向かって右側面から見れば、裸婦の水平な右腿を底辺に、裸婦の胴体を右辺に、小児を左辺に持つ三角形に見える。小児と裸婦の間には隙間があって密着していない。裸婦の頭部はバランス的に斜上方へ伸びる胴に対して大きめに感じられ、右下に向ける視線によって胴とは違うベクトルを持つ。小児の頭部は首がないことから、むしろ小児の胴の一部としてあるように見える。


台座の量隗と裸婦頭部の球、裸婦の胴体・右腿・右脚・左腿・左脚、さらに小児を示す棒状のものを用意し、各部を繋げていけばこの像の基礎的な構造は再現できるように思える。裸婦の胴や腿、小児はどれもその表面に滑らかなうねり、というか凹凸をみせていて、それぞれの部位の質のどれにも特権性がない。大袈裟な言い方をすれば、ある種の合衆国、または連合国のようなものが形成されているような印象がある。


裸婦と小児の間の隙間の存在などから上述のカミーユ像よりはポーラ美術館で見る事ができたルノワ−ルの「ヴェ−ルをまとう踊り子」(id:eyck:20050503)を想起させるのだけど、「ヴェ−ルをまとう踊り子」では虚と実態の2つの対立が軸になっているように思えるのに対して、「姉と弟」では各部の複数の関係の積み重なりの結果として隙間が生まれている。


小児を抱く裸婦像というとても古典的なモチーフでありながら、このロダンの「姉と弟」はほとんど現代の抽象彫刻のような在り方をしている。周囲を巡るように見れば、ふとカロのテ−ブルピースまで想起させられる。この像が作られた経緯のようなものは僕には分からないが、キリスト教の聖母子像に似たものも持ちながら、しかしそこからははっきりと断絶したロダンの意識が見てとれる。聖母子像から宗教色を取り除いた「母と子」でもない、さらに「一体感」「密着感」の薄い「姉と弟」という作題も、ことによったらロダンの明確な意志によるものかもしれないと想像するけれど、そこは確認はできなかった。


●フィリップス・コレクション展