府中市立美術館で山田正亮展を見て来た。
第3室に集められていた、縦長の構図に水平のストライプが描かれている作品群の中で、比較的初期の1960年に描かれた「Work C.40」と後の1963-64年に描かれた「Work C.148」を比べてみると、作品の質に変化がある。山田正亮氏という画家の画歴と多数の作品を思うと、ここにいきなりフォーカスを当てるのはどうかなと思うけど、とりあえずは2つの作品を起点にしたいと思う。


「Work C.40」は、サイズは縦162cm×横97cmでキャンバスに油絵の具で描かれている。ストライプの開始点と終点が画面上にある。その結果、個々の線の両端が筆の形に鈍く丸まり、画面の左右のへりにキャンバスの地が覗く。また、下層の線も所々に見えていて、画面に対して垂直方向に積層された構造も確認できる。線は画面上の何ケ所かで「垂れ」を見せていて、太さもまちまちとなっている。色は赤、青、褐色、白などが確認できて、濃度にもむらがある。


対して「Work C.148」は縦194cm×横97cmで、横幅は「Work C.40」と同じだが縦に長い。やはりキャンバスに油絵の具で描かれた作品となっている。ストライプは画面の外から引かれ外へ抜けている。キャンバスの「へり」がどうなっているかは額装されているため確認できない。やや幅広い白と細い青の2色の線が交互に整然と引かれ、太さのぶれ幅は極めて小さくなっている。しかし、マスキングや定規などで引かれた、機械的な線では無い。あくまで作家の手が引いた線である事はわかる。絵の具の垂れはなく、濃度のむらも確認できない。


「Work C.40」と「Work C.148」の質の差は、端的に言って画面内の要素の数の違いによる。「Work C.40」にあった、画面両端のわずかなキャンバスの地、絵の具の垂れ、濃度の幅、線の重なり、線幅の変化などが「Work C.148」ではなくなるか押さえられており、色数も2色に減っている。この事を、単に画面の洗練とか様式の進化、と言ってしまっては山田正亮氏という画家の思考を取り逃がすことになるように思う。


「Work C.40」と「Work C.148」の間に制作された作品を見て行くと、国立近代美術館所蔵の作品に見られるように、麻布のような強いマチエールの画布が使われたり、色彩がやや明るく鮮やかになりながら、少しづつ絵の具の垂れがなくなってゆき、濃度差や線幅もぶれが減る。線の起点・終点はある時から画面の外に置かれ、キャンバスの地は消える。


この行程が、パソコンのトラブルの原因のあぶり出し、あるいはデバックに似ている気がした。こう言うと比喩として間違いになってしまうと思うのだけれど、そのような検証作業に近い感触は、この展覧会全体にあると思う。


パソコン上で、画像A/B/C、テキストa/b/cによって構成されているファイルの出力に問題がある時、画像Aを取り外して出力してみる。うまく出力できたのなら問題は画像Aにある。解決しないなら画像Bを外す。以下、画像C、テキストa/b/cの順に確かめていく。実際には複数の要素に問題があったり、アプリやハードに問題があったりするから相応にこの検証は錯綜するが、原則的には行程に関わる諸要素を「外していって」、課題を洗い出す。


山田氏の制作がこのようなプロセスと近い論理性を持ちながら、決定的に違うのは「問題とはそもそも何なのか」は、どのように制作をくり返しても分からない点だ。実際に会場に立ってみれば、第3室において最も充実している作品はWork C.94などの、やや中間的な位置にある作品だと思えるし、Still Lifeシリーズにおいても、個人的にはStill Life No.62といった、要素を削り切ったものでも「豊か」でもない作品が良いと思える。会場では、良いと思える作品は散在している(ところどころに魅力のない作品もある)。このような判断は個人の条件に縛られているし、そもそもこのような作品群自体とは違った価値判断もありうるだろう。


しかし、にもかかわらず山田正亮氏の制作が他の同時代の作家とは違う凄みを獲得しているのは、「解決」などありえない事を知りながら、自らの立つ場所(それは恐らく戦後間もなくの展覧会「泰西名画展」での経験ではないかと想像する)をとにかく一度「信じて」見て、そこで自らの手による「絵画の検証」を続けたからではないかと思えた。


様々な要素を確認していきながら、どの段階の作品がどのように動作するかは作家にもわかわない。それぞれの作品の動作の在り方、アウトプットの在り方/効果の有無はわからない。その作品の散乱は、コンピュータのトラブルの探索というよりは、何か未来の(そしてこういって良ければ「絵画」の)OSあるいはプラットホームの開発のようだと言ったほうが適切かもしれない。そこでどのようなアプリが走り、どのような「成果」があるかはわからない。どの「段階」が良いというわけでもない*1。だからこそ山田正亮氏の制作には、終わりがないのだと思えた。

*1:そして、このような検証は、日本で行われたことはないと思える