イサム・ノグチ展

東京都現代美術館イサム・ノグチ展を見てきた。


イサム・ノグチの彫刻は、「一つなるもの」としてあるように感じられる。それは現代美術の世界、例えばジャッドなどの言う「単一性」とは違ったものだ。基本的にノグチは人体をその造形言語の基点に据えているが、ノグチの中での人体とは、複合的な諸要素の「まとまり」としてある。やがてその「まとまり」が、地面とか地球規模の「一つなるもの」として把握しなおされはじめ、そういった大きな「まとまり」の1部の現れが、時にはランドスケープ・アート的な公園計画にまで拡張されるといった様相を見せているのではないか。


このような書き方だと、なにか線的な認識の発展があったかのようになってしまうが、かなり初期の段階から大規模な公園計画の構想があったらしいことを伺わせる模型を見ると、たぶん制作を通して、そういったものが徐々に意識化されたのだろうと思う。


インターロック・スカルプチャーと言われるシリーズは、紙に有機的な(足や腕などの身体を思わせる)形態を描き、それを切り抜いたものを組み合わせてできたテスト・ピースをブロンズで作品にする、といったもので、この作品群にノグチの「一つなるもの」という意識が明確に出ている。


まさに紙を思わせるような薄いブロンズの「パーツのまとまり」は、抽象的な形態であるものほど分裂的要素が少なく「一つのもの」として見える。逆に、パーツの数が多く、多数の形態の集合としてあるものは、はっきりと「人体」を想起させるシルエットを持つ。ここではいかに個々の形態が抽象化され細分化されようと、最終的にはけして「散乱」をしない。同時にそれはあくまで「まとまり」であって、どこかにかならず「つなぎ目」があり、「組み合わされて」ある。


ここで「一つなるもの」を成り立たせているのは、人体という、諸部分では個々に複雑な形態や機能をもちながら、それが全体としてある一つのまとまりとして存在するもののイメージだ。それはブランクーシの元で彫刻の抽象化を学んだノグチが、最後まで「人体」というものを彫刻の中心から離さなかったという話から推測される通り、ノグチの制作に一貫してある一種の確信のようなものかもしれない。


だが、ノグチの「一つなるもの」が、人体にとどまらない認識だったらしいことは、いわゆる公園計画の構想が、かなり初期からあったことに窺える*1。インターロック・スカルプチャーが、その複数のパーツを「人体」という枠組みの中で「まとまり」にしていたとしたら、公園計画などは、地面の一部を操作することで「地球という惑星」という「まとまり」を意識させる「彫刻」なのだと考えられる。


これは、違う展示室に置かれていた「砥石」「この場所」といった石彫作品が「地面の一部」として考えられていたという会場のキャプションを敷衍したものだけれども、そういえばこれらの石彫には「人体」の影がない。系列として考えるなら、いわゆるノグチの彫刻作品、それは基本的に垂直の方向性を持ち、人体のスケールで作られ、複数のパーツが「つなぎ目」をもちながら「一つのまとまり」としてあるものとは違った、公園計画の系列に属するもののように思える(これらの石彫作品は、1つの石材から削り出され、つなぎ目がなく、水平の方向性をもつ)。


この二つの系列のちょうど中間にあるのが巨大な石彫作品の「エナジー・ボイド」になるのだろう。まず、それは人体のスケールを遥かにこえる大きさをもちながら「高さ」がある(水平ではない)。つなぎ目はあるが、それは複数の要素の集まりとしてではなく、円環のなめらかな連続の結節としてある。そしてその表面は、人の肌のような磨かれ方をしている。


中間、という言い方は正確ではないかもしれない。それはいわば総合としてあるのかもしれない。ほぼ等身大の彫刻群が、時にあまりにも人体をイメージさせすぎていわゆるアントロポモルフィスムそのものに見えてしまったり(というか、ある程度ノグチがアントロポモルフィスムの人であることは間違いないと思うが)、いわゆる公園計画的なものが、いかんせんその社会的プログラムから要請される「善」のイメージ、あるいはやや退屈なガイア論的ニューエイジ思想を喚起させてしまうのにくらべて、「エナジー・ボイド」は巨大でありながら極めて軽快な存在の仕方をしていて(僕などは中が中空なのではないかと思って、叩いて音を確かめたくなる誘惑にかられた)、僕の知るノグチの作品の中では、もっとも素晴らしいと思う。ノグチの様々な思考は、この作品でもっとも抽象度の高さを獲得しており、これが見られるだけでも木場まで出かける意味があったと感じた。


イサム・ノグチ

*1:そこでの「公園」は、あくまで「彫刻」の一形態であるのではないかと思えるのは、その公園計画の模型が、ブロンズによる一体整形で作られていることによる