観光・イタリアルネサンス(3)

●雑記

ちと雑記。そんなのどうでもいい人は下の●フラ・アンジェリコ2へ。


サン・マルコ寺院も正面ファサードが工事中で、よく見れば町中のあちこちで修復をしている。数百年前のものなのだから当たり前なのかもしれない。そういえば宮島にいった時も、朱塗りの柱とハレーションをおこすように屋根にブルーシートがかかっていた。不思議なのが、イントレは組んであるのに作業をしている人の姿を見かけない。イタリアはお正月よりはクリスマスの方が大イベントで、正月休みということはない。実際、美術館も教会も閉館してるところはないし、店鋪も普通に営業している。静かに作品が見られるのでありがたいのだけど、どうやらこういう所にイタリア人の気風があるんだな、と気付いたのはもっと後の事だ。


サン・マルコ寺院は教会ではなく現状では美術館で、入り口で料金を4ユーロ払う。ここにはマジックで「写真撮影禁止」とばっちり漢字で書いてあって、日本人が多く来るんだなと思わせられる。一方こういうルールがあんまり守られないのもイタリアではあった。一応、あんまり派手にやって人は流石に係員にやんわり注意されるようだ。


1Fの回廊周りにある食堂や小部屋にはフラ・アンジェリコの板絵やギルランダイオの作品が見られる。ギルランダイオという画家は今回初めて知った。あちらこちらで目にするし、実際佳品が多い。もっとも、そんな事を意識したのはもう少し後の事で、この時は「フラ・アンジェリコを見るぞ!」という意気込みから、全然それ意外の画家が目に入らなかった。


とにかくフィレンツェ初日で、しかも日程が混んでいたので、序盤は無駄に肩に力が入っていた。絵を見る、ということの難しさ、というか微妙さはこういうところにある。「見るぞ見るぞ」と勇んで見ても、こちらのエゴみたいなものを視線で投げ付けて終わってしまう。ある「訪れ」を待つのに有効だったのは単純に疲労で、回廊を巡りまくった後半、「見にいった」作品ではないものの前で、足に重さを感じて立ち止まった時なんかに、ぼわーんと「いい絵だなぁ」と思ったりする。


ガンバリで満ちていた自分を「やばいな」と思ったのが1Fを一通り見た後の、2Fへの階段上がりっ鼻にある「受胎告知」を見ていた時で、しばらく画面の前に立ちながら「だめっぽい」と思った。そこからどう自分の目を整えたかは覚えていない。とりあえず歩いた。この上部階にはフラ・アンジェリコ以外の作品もあって、これはわりとはっきり「イマイチ」なものだったのだけど、むしろそういう物を見る事で「あー、やっぱりフラ・アンジェリコは何か違うんだ」と思えた、その辺がとっかかりだったかもしれない。


何か違う、その一発が基点になる。それは好き嫌いという趣味判断や、図像・マチエールの観察、あるいは有名無名etc.のコンテキストなんかの手前にあるものだ。絵を見るというのはすごく主観的な事態で、結局「自分がどう感じるか」という所に収斂しがちだ。しかし、この「何か違う」というのは、まだギリギリ主観的なものからズレたものだと思う(というか、そこからズレるから「何か違う」と思うのだ)。その「何か違う」というモノが自分を揺るがし再構築を迫る何ごとかになる。


●フラ・アンジェリコ2

改めて見たフラ・アンジェリコの「受胎告知」について。1450年に描かれたとされている。


かなり観客への効果を勘案した作品になっている。1Fからの階段を登ろうとする、その目線の先にちょうど見えるように階段を登った先の廊下の壁面上部に描かれている。大きな絵で、しかも廊下の幅が狭いから、階段ぎりぎりまで下がっても相当仰角で見ることになる。この事からも、訪問者が、階段を上がりながら、画面に近付きつつ見ることを想定して描かれている。人の身長にあたる高さまでは、ガラスか透明なアクリルのようなもので保護されている。壁面は意外なくらい「たわみ」があり、完全に平滑ではない。


この絵の興味深いところは「何もない空間」というものが、ある充実さを持っているところだ。そしてそれを支えているのは、画面の色調、トーンの繊細さだと思える。


1Fで見た、板にテンペラで描かれているフラ・アンジェリコの先行作品に比べると、とにかく画面内部の要素が少ない。最も目立つのはマリアと天使ガブリエルという「図」に対する背景となる、古代風のテラス及び画面左側の庭園だ。このテラスにはマリアの座る簡素な椅子以外、何もない。壁面や床もほぼ無地だ。一般に受胎告知図に描かれるマリアの読みかけの旧約聖書もない。また、天使ガブリエルが持つ筈の純潔の象徴である百合の花も、精霊である鳩も、天使ガブリエルが述べる言葉もない。それらはどこへ行ったのか。


読まれるべきアレゴリーは排除され、ただただ「何もない空間」が広がる。向かって左手の庭園は小さな草花があるだけで、ほぼフラットな「地面」になっている。その奥にある冊も垂直な面を作るだけで、さらに奥にある林も「ただの林」だ。フラ・アンジェリコ初期の受胎告知図にはこのようなところに時空の異なる楽園追放図があったことを考えると、「要素の排除」がいかに徹底しているかがわかる。


そのような要素の排除が生み出す「何もない空間」、その「奥行き」こそが、「深さ」に転化しているのがこの「受胎告知」だと言える。「シンボルとしての遠近法(パノフスキー)」が現前しているのがこの絵だと言ってもいい。ゴシック様式から出発し、マザッチオをはた目に見てきたフラ・アンジェリコが、その成熟期に得た、空間の奥行き=遠近法が生み出すものは「精神の奥行き」であり「内的空間」だという認識が示されているのが、長く傑作とされている「受胎告知」なのだと思える。遠近法が内的深さを示すものだとしたら、奥行きそのものを描くことが「意味」となる。逆の言い方をすれば、奥行きさえ描き得れば精霊も旧約聖書も、その「奥行き」の中に埋め込まれ、わざわざ描く必要がなくなる。


奥行き、深さが「空の場所」ではなく「充実」しているのは、そこに意味が充填されているからに他ならない。そしてその充填されたものこそ、意味としての光、トーンの構築が生み出す光となっている。まず、全体に色数が少ない。庭及び林の緑、ガブリエルの服のマゼンタ、マリアの服の青以外はほぼ明るい褐色のバリエで占められている。ガブリエルの羽の模様がやや目立つが、ここでも室内の乳白色に重なる部分は黄色を強めた褐色で描かれ、冊に重なるところはそれに合わせて明度を落とし、暗い赤および庭の緑に近い色が使われる。模様は細かく、羽単独がバルールを外さないよう空間に納まっている。


「受胎告知」にはコントラストがあまりない。明暗を強める、ということは「光りのない場所」を作ることに繋がる。フレスコという技法の特徴もあるが、フラ・アンジェリココントラストを埋める、すなわち明るさを遍在させることに極めて意識的であったことは明確だと言える。まずガブリエルには完全に影がない。霊的存在であることを示しているとも言えるが、先行して描かれている僧房の「受胎告知」においてはガブリエルにも影があることを考えると、この影の完全消去は霊性の表現だけとは言えない。マリアの影も、マリアの青い上着の濃度(それはこの絵の中でもっとも濃いトーンをなしている)を考えると、不自然に薄い。古代風の柱の回りこみ、アーチの陰影、いずれも「暗くならない」ように描かれている。庭などは、ほぼ明暗がなくなっている。


この明るさの遍在こそ、描かれなくなった精霊の光、祝福の言葉、純潔の象徴の遍在化になる。何もない空間は、聖性をもった光によって満たされている。奥行きは意味となり象徴となった。フラ・アンジェリコの「我々の近くにキリストがいるとせよ」という要請が導きだした、非現実的要素の排除は、その反作用として現実に「深さ」を転化する。この絵を離れてサン・マルコ寺院の中庭に出た時、そここそあのマリアが描かれていた場所であることが分かる。そして、現実のたんなる場所が「内的空間」となっていく。