観光・イタリアルネサンス(5)

●フィリッポ・リッピ

サン・ロレンツォ教会でフィリッポ・リッピ「受胎告知」。1440年頃の作と言われている。マルテッリ礼拝堂の、キリスト十字架像の下に置かれた受胎告知図で、更に下には3枚からなるプレデッラがある。


困った。どう書いていいかわからない。そのくらい変な絵だ。


画面ドまん中を貫くように柱が描かれ、そこからほぼ左右対象にアーチが画面両端に伸びている。そのアーチが落ちたところに再び同じような柱があり、これが画面のフレームをなしている。この大きく2分された場面の向かって右手に、旧約聖書を読んでいるマリアがややおののくように、台座から右足だけ落としてイエスの受胎を告知する天使ガブリエルを迎えている。その足下に跪いて百合の花を持ったガブリエルがいる。二人の間の足下には、1段下がった床に純粋を意味する水の入った透明なガラス器がある。画面向かって左手には、マリアとガブリエルがいる床から一段上がったレベルに、二人の天使がいる。このうち奥にいる天使の頭上には精霊を示す鳩がいる。また、ガブリエルの羽と服の裾の先は中央の柱の後ろを通ってこの左手の画面に現れている。


二人の天使、マリアとガブリエルの背景には1点消失で描かれた風景がある。向かって右手の奥に伸びる建物には日が当たっている。画面反対の建物は影になる。消失点は中央からわずかに、向かって右手にずれていて、そこには異様な赤い建物がある。この赤い建物を遮るように手前には樹木がある。二人の天使、マリアとガブリエルとこの背景はジグザグを描く縁石で区切られていて、ここにも柱と3本のアーチがあるが、まん中の柱は手前の柱に重なって見えない。マリアの後ろ、及び向かって左手の二人の天使の後ろにはそれぞれ奥に伸びる建物へのエントリーとなるゲートがある。


あまりにも大胆に画面を貫く中央の柱に面喰らうが、このような柱の扱いが他の受胎告知図でないわけではない。しかし、おおよそこのような柱は霊的存在となるガブリエルと人であるマリアの位相を分割するためにあるのであって、ここまで主張の強い(主人公たるべきマリア、ガブリエルと同等に存在感がある)柱を描いておきながら、ガブリエルはあっさり「マリア側」にいる。で、徹底して左右対象に画面を分けながら(手前と奥で画面をわけるアーチと柱が重ねられて反復している)、一点の消失点は微妙に右側に設定され、しかも「消失点はここですよ」と大声で主張するように真っ赤な異常な色をした建物でマークされる。だいたい画面左手の二人の天使の存在理由がわからない。


台座から右足だけ落としたマリア、その床に跪くガブリエル、一段上がったところにいる天使、全体の更に一段下に置かれたガラス器という階層構造も気になる。が、そのことを含め、この絵を見るものは単一の焦点が見つけられず、それほど大きくもないこの絵の様々な部分をそのつど見ながら、決して全体をまとまった形で認識できないのではないか。柱に注目すればマリアもガブリエルも消える。マリアを見れば向かって左の二人の天使が消える。極端に目立たせられた消失点の赤い建物を見れば逆に遠近が消え失せ、ガラス器を見ればそれ以外の全てのものが視界から消える(そのくらいこのガラス器は独立性を-後ろの床がガラス器に合わせて凹ませられている-強調されている)。


逆の言い方もできる。この絵ではどこかの部分だけ独立して見ようとしても必ず他の何かが邪魔をする。マリアだけを見ようとしても、「マリア側に侵入」したガブリエルは排除できないし、先の記述とは矛盾するがガラス器だけ見ようとしても(ガラス器は小さいので)マリアやガブリエルはどうしても目に入る。二人の天使だけをみようとしても精霊の鳩が視界に必ず入る。だいたい何を取り出して見ようとしても中央の柱が邪魔をする。ほとんど全てのものにシャープにピントがあっていて空気遠近法はまったく使われていない。最も遠景の空の雲さえクリアに描かれる。


様々な要素が、お互いに同等に描かれていて、そこに主従がない。マリア、ガブリエル、二人の天使はボリュームが似ていて、その高低のリズムだけが変えられている。中央にガブリエルがいて、マリアが極端に画面はしにいることも注目だが、これらの関係性とずらされた遠近法の関係も相互に「対等」で、どちらかのためにどちらかが従う形にはならない。画面内の単位が、相互にバラバラで独立しながら関わりあっている。ここでは一つの物語の道具として各要素があるのではない。各要素が組み合わさったら、それが「たまたま」受胎告知図の「ようにも見える」状態になっている。柱が空間をなめらかに連続させるような円柱ではなく、角柱であることにも改めて気付く。


視覚の惑乱、そこにこそこの絵の機能があると知った時、「存在理由がわからない」画面左の二人の天使が描かれたわけが分かる。簡単にいえば上記のような事態を成立させ複雑にするために召還されたのがこの天使なのだと言っていい。参照ポイントが増え、場面が分断化され、この絵を見るものの、視覚上の運動は過剰になる。何かを見れば何かが消え、何かを見れば他の何かが侵入する。それが同時に引き起こされる。要素を排除し、単一の「深さ」に包まれたフラ・アンジェリコ「受胎告知」のまったく反対のことをやっているのが、このフィリッポ・リッピの「受胎告知」だと言っていい。当然精霊も百合も旧約聖書も排除されるわけがない。この絵を見る時は自分の視点が「足りない」という気になるし、同時に自分の視点がいくつかに増えたような感覚にも襲われる。


優美なマリア像を描いたことで有名なフィリッポ・リッピだが、彼の絵にはどこかこのような分裂/分岐していくという側面がある。しかし、このサン・ロレンツォ教会にある「受胎告知」は、マリアの美しさよりもそのような複雑性が徹底的に追求されている。今回の観光の収穫の一つはこのフィリッポ・リッピの魅力だったと言えるのだけれども、ことに最初に見たこのサン・ロレンツォ教会の「受胎告知」は、他を抜いて面白かったと思う。この絵ではキリスト教的主題が一種の遊びの素材となっている。それは他の何ごとかでもかまわないのだ。