観光・イタリアルネサンス(14)

ウフィッツィは打ち切り。おわんねー。つうかもう上手く思い出せない。

●マリーノ・マリーニ

ウフィッツィの後、マリーノ・マリーニ美術館へ行った。なんでここでマリーノ・マリーニなんだと思われるかもしれない。簡単に言えば配偶者の希望で寄ったのだった。彼女が学生時代にフィレンツェに来た時*1、引率?の阿方稔氏に勧められてこの美術館に足を運び、すっかり気に入って今回のスケジュールに再訪の予定を組み込んだというのが理由なのだが、僕も古典ばかりを見る中で、ひと休みするという意味も含めて行ってみた。


マリーノ・マリーニ美術館は、フィレンツェ市内の教会の跡をリノベーションして作られたものなのだが、内部は床板が敷かれそこそこ近代的な空間になっていた。具体的には石造りの匡体に床・壁・天上とフラットなパネルを浮かせ、作品が設置される場所は(ホワイトキューブというよりは)モダンな大形住宅といったテイストにされているが、それらの仮設された部材の隙間から、古い石積みの教会がレイヤー的に見えてくる、という構造になっている。大きなガラスもはめられ、かなり明るい印象があった。


マリーノ・マリーニといえば代表的なのは馬とその背に乗る人物が、四方から引き裂かれるような、突っ張る緊張感に満ちた「騎士と馬」のシリーズで、実際この美術館も入って最初に目に入るのは大形の「騎士と馬」なのだけど、これは主に後期に集中して作られたもので、上の階には中期の人物の立像や絵画が置かれている。僕は以前箱根の彫刻の森美術館に来た中期のマリーノ・マリーニを見ているが、この後期程有名ではない作品群が気になっていた。


中期の人物像は、ややデフォルメされた、丸みのあるプロポーションの人物が、つま先立って上方へ伸び上がる立像が多く、他には座り込んだりしている作品がいくつかあった。表面は荒く、土を手で盛り上げていった跡が全面に残っていて、目や口は引っ掻き傷のような簡易な削り痕でわずかに示されている。表現主義的なタッチの彩色が施されているものもある。


立像の、上へと全身を伸ばしていこうとするフォルム、ことに爪先立った足からピーンと張った身体、おとがいを上げて天を望む前面の緊張感に後期の「騎士と馬」へ繋がる「張力」も見てとれるのだけど、やはりどこかでこの作家は大きな転換を行っているのだな、と思う。まず中期のものは女性像が多く、そのまろやかな形態は後期の騎士の抽象化・記号化されたあり様と全く違う。また、その表面への彩色も後期には見られなくなる。また、造形的な興味は後期には馬を含んだ運動そのものに集中している。


単純な言い方をすれば、「騎士と馬」以前のマリーノ・マリーニの作品には、どこかモノの存在を肯定的に捉えているような印象がある。なだらかな曲線で繋がれた四肢と胴体、首から頭部は連続した1つの存在として捉えられ、その人体のとても繊細な存在感や気配ともいうべきものが「伸びる」「座る」「うずくまる」といった仕種の中にある。大きさは等身大よりやや小さく、子供のようなスケールであることが多い。ペインティングの施された表面には、様々にうごめく、形にならない微細な動きや周囲との関わりあいがあり、全体に空間と連続し共存する。


対して「騎士と馬」では、急激に周辺の空間との「闘争的関係」が高まる。単に立っていた馬はやがて様々なねじれをみせながら4本の足が周囲から引っ張られるような形態をし、首も大きく曲げられのたうつ。背にのった人体はまろやかさを失い抽象化し、首と胴は別のもののように分断され、手足は空間にはりつけにされたように突っ張る。また、いくつかの作品は極端に巨大化する。それは像としては、置かれた空間を圧するような存在感を持ちながら、実際には周囲の空間に引き裂かれているような、被虐的な様相を見せ始める。闘争的関係と書いたが、別の見方をすれば、それまで大気に包まれていた存在が、急に真空中にむき出しにされ、「なにもない」中に四散する直前のように見える。闘争的であれば、それはあくまで「関係」の一種だが、このような見方をすればそれは関係すら断たれたものになる。


たぶん、作品の強さ、ということであれば、有名な「騎士と馬」のシリーズの方が圧倒的に「強い」。相応に優秀な彫刻家だったマリーノ・マリーニの名前を国外にも届かせる要因になったのは、間違いなくこの強さだろう。実際、そのようなネームバリューがなければこの美術館は作られなかったし、僕も中期の作品を見るなんて事はなかったに違いない。しかし、それでも僕が思うのは、「騎士と馬」以前にあったある種の弱さ、そこに含まれた繊細なブレや、周囲とどのように像が関わっていくかという、ためらいがちな試みの「幅」のようなものが、「騎士と馬」では失われてしまっていて、それだけでマリーノ・マリーニが語られてしまう、あるいは「完成」への「途中経過」としてそれまでの作品が見られてしまうのは、ちょっと勿体無いな、ということなのだ*2.

*1:美大生を対象にしたヨーロッパの美術ツアーというのがあって、彼女は1ヶ月かけてあちこち回った

*2:違うことも書きたい。「騎士と馬」への変換を、世界大戦を含んだ20世紀の悲劇の刻印とみるのは、勿論間違っていない。それはハッキリと切断としてある。だが、僕が改めてその切断を見ながら感じたのは、そのような「肯定」から「否定」へとベクトルが変化してもなおマリーノ・マリーニが「存在」というものに強固にこだわっている、それはなんなのだろう、ということだ。マリーノ・マリーニの彫刻で主題になっているのはあくまで「存在」であって、それを囲む何ごとかが連続的だったり断絶的であっても、存在そのものはけして四散しない。「騎士と馬」は、周囲から暴力をうければ受ける程、それへの抵抗の通じてより一層存在感を肥大させる。あのこだわりようは、やや心に残った