観光・イタリアルネサンス(13)

ルーベンス

ルネサンスの画家ではないのだが、ウフィッツィはボリュームとしてはマニエリズム以降が半分を占めている。シャルダンとか、面白い画家の絵がかなりあるのだけど、とりあえずルーベンスについて書く。


僕はルーベンスという画家が好きなわけではない。ことに代表作と言われる大作の数々は、いわゆるバロックの仰々しいスペクタクル絵画というべきもので、僕の個人的趣味としてははっきりと嫌いなタイプに属する。にもかかわらず、多くの作品があるウフィッツィやパラティーナで「おっ」と思わせられる良い絵があると、それがルーベンス肖像画である事が多かったのだ。


かつて日本でデパート付属美術館が賑やかだった頃、東武美術館に来ていたルーベンスの、十字架から降ろされるキリスト像とかは記憶に残っている。一度横浜のそごう美術館に展示されていたルーベンスを見て、これは真筆ではないだろうと思っていたら、それが伊勢丹美術館に巡回してきたときには展示から外されていて、ああどっかから突っ込みが入ったな、そりゃそうだろうと思った経験もある。ま、あれは多少絵を見なれている人ならばおかしいと思う作品だったのだけど、好きではない人間にとっても「こんな程度の画家ではない」と一目見て判断できるものが明瞭にあるのがルーベンスだ。


人気画家で外国大使のような仕事までまかせられる程有能な人だったルーベンスは工房も組織していて、構想だけ起こして弟子に描かせた絵やコピーされた絵も沢山あるから(国立西洋美術館で、ルーベンス作としていた絵に疑義が提示され、検証の結果工房の作品とされた経緯が展示された事もあった)、こういう事は今後もそれなりにあると思う。が、多分この手の「事件」は、絵の悦びというようなものを無視して、美術史的文脈やら材料検証やらを優先させた結果起きる事が多いのではないか。むろん画家には波があるから、真筆でかつ駄作、というのはありうる。が、ヨーロッパ各地で信仰の対象となっている祭壇画などはともかく、わざわざ日本にお金をかけて輸送してきて、ルーベンスの名を冠して収蔵・展示するならば、まず作品の来歴云々ではなく画面それ自体を見る事を基礎に据えるべきだと思う。


「イザベラ・ブラントの肖像」はウフィッツィ41室にある作品で、ルーベンスの最初の妻を描いた絵とされている。1625年に油絵で描かれている。この絵が、美術史的な文脈を超えて見る者に迫って来るのは、描く喜びが、描こうとする対象のあり方と深く結びついていることによる。そこにあるのは、言ってみれば描かれた女性の溌溂とした存在感なのだが、それが描いてゆく画家の筆致の、高い技術に支えられた運動感覚の溌溂さの定着と重なりながらも、けして一体化しすぎずに冷静な知的観察に支えられていて、その総体が画面をいきいきとさせているのだ。


この絵の飛び出してきそうな強い印象は、モデルの女性の造形によると思えるのだが、それが「表情」とか「視線」とか「仕種」のような、読みを誘発するようなものではなく、目の前に確固として存在し、画家と切り離されてある一個の人間の存在感をいかに描くかという、格闘技というかスポーティな感覚によって基礎付けられているからこそ、面白くなっていると思う。そこにはモチーフを自分の絵の構造の一部として利用するのでも、モチーフから受けた自分の感覚や論理をモノローグ的に表出してしまうのでもなく、モチーフと自分の絵の間で対話が行われながら、その対話を筆の運動の集積として積み上げていっているために、いわば健康な緊張感が与えられたのだ。


筆の運動の集積と描いたが、実作を見れば表面的には(ベラスケスのような)間近から見ればタッチに分解されるが、離れて見るとモノの形態として見える、というような絵ではない。それはあくまでリアリズムに基づいた、というか連続した形態に沿った滑らかなものなのだが、もう、あと一歩でタッチに分解しそうな、勢いのある筆致なのだ。それが正確なデッサンで、無駄がないものだから、画面がまるで今そこで描かれたような新鮮さを保っている。


「無駄のない」といっても、例えばロダンの「カミーユ・クローデル」(参考:id:eyck:20050713)の頭部の彫刻のような、恐ろしく切り詰められた「貧しい」厳格さよりは、もうちょっとで余剰なものがあふれだしそうな「豊かな無駄のなさ」(我ながら矛盾した言い方だけど)で、ああ、これこそルーベンスだなぁ、と感じさせる。ことに首から上の顔、頭部の形態を暗い背景の中から、明るい輝くような肌の色で切り出して来る感じは、ちょっとカラバッジオを連想させるような彫刻的な実在としてこの絵を規定しているのだけど、カラバッジオが(嬰児の死体をデッサンしてキューピットを描いたように)写真的に一瞬の静止を描いているのに対して、ルーベンスの躍動したタッチは、まるで運動しているものをすくいあげたような(つまり今にも動きだしそうな)描き方になっている。


ルーベンスの大形の絵画、歴史画や祭壇画などが今一つ好きになれないのは、それが観客の反応を引き起こすための「スペクタクル絵画」だからで、そのバロックそのものといった大袈裟な身ぶりや多数の人物のダイナミックな構成が押し付けがましく「感動しろ」と命令してくる所に違和感がある。そういうものはいかに「効果満点」であっても僕は引いてしまうのだけど、同時にルーベンスが「ただ者ではないな」と思うのは、そのような、趣味的に嫌いなスペクタクル絵画であってもけして空疎に落ち込まず、ある充実を示しているからだと思う。


その充実というのは、良く言われる溢れるような肉の量塊が過剰に画面を覆っていくという話しとはちょっと違っていて、そのような肉を溢れさせるような「描き」が、画家としての戦略や狙いを遥かに超えて「描くことそのもの」の横溢するエネルギーの展開としてある事によると思える。作品によっては、そのような描くことの勢いが作品全体を破綻させるくらいに肥大して、バロック的な構成や演出は、それが目的というよりは、作品を壊しかねない描画の奔放さを、かろうじて押さえ込むために要請されたように見える事すらある。こうなってくると、好きとか嫌いとかいう趣味判断が成り立たないような、めちゃくちゃさとしてルーベンスは立ち現れ始めて、うわー、と言うしかない地点に追い込まれてしまうのだ。


「イザベラ・ブラントの肖像」は、そういう暴力的な所はない、あくまで良く出来た肖像画なのだけれども、そのぶん対象となるモデル(の存在)との、テニスのラリーのような理知的な運動が、とてもチャーミングに一人の女性のあり方を浮かび上がらせている。ここでは画家は自らのエゴを棚にあげて、あくまで対象を見て、それに寄り添うように筆を運んでいる。この絵に限らず、ルーベンス肖像画でその「見て描く」才能を存分に発揮する。僕がルーベンス肖像画に引き付けられるのは、上記のような対話的な作品が多いからだと思う。


それにしても、この絵のような、成熟した大人の女性の魅力を描いた絵画というのは印象的だ。描かれたイザベラ・ブラントは恐らく40代なのだが、この絵の中のイザベラは別に美化もされていない。しかし、その内実ある存在感に裏打ちされた官能性は、「若さ」とか「女性」といった「属性」によるものではない自立した強さに支えられていて、やや大きく開かれた胸元も、誘惑的というより「かっこいい」といいたくなる。この絵が描かれた1年後にイザベラは急死しているが、死の前年までこういう風にルーベンスの前に柔らかに座っていられたというのは、けして不幸な感じがしない。