観光・イタリアルネサンス(16)

●フィリッポ・リッピ2

ピッティ宮パラティーナ美術館でフィリッポ・リッピ「聖母子と聖アンナの生涯の物語り」。「バルトリーニのトンド」とも呼ばれている。1450年に描かれたとされている。直径135cmの円形の板絵(トンド)で、テンペラで描かれている。宮殿美術館の1室に多数の絵画が置かれている中で、豪華な額に入り通路側に画面を傾けて設置されているが、このような展示はパラティーナ美術館でもラファエロなどの評価の高い作品に限られており、このバルトリーニのトンドも見のがされることがないよう遇されている。


室内を描いたこの絵は、まず向かって右下、一番手前で最下層となる床・一段上がって向かって左手中段の寝室・そこからさらに1段高い向かって右手上の空間と3分割されている。エッシャー的空間、言い換えれば夢の中のように細部は極めて鮮明でありながら、全体が不連続で異常な感じを与える空間は、まず消失点が3つのレベルの空間でずれているのではないかと想像される。ところが右手前、左手中段、右手上の各床及び天井の描く線分を延長すれば、正しく中央マリアの観客を見つめる右目まぶたの上に集中する。この右目まぶたは画面左右のまん中、上下半分の位置からやや高い位置に置かれていて、遠近法的にはまったく破綻がない。


むろん1点消失の空間が、球面を描く人の視界に対して不自然であるのは、パノフスキーの指摘以前にクワトロチェントの画家達の前提であった(だからこそボカシや消失点の隠蔽、ボッティチェリ等による線遠近法の排除/コラージュ的「重ね合わせ」による遠近感の暗示etc.が工夫された)が、このバルトリーニのトンドでは、その不自然さがむしろ意図的に使われている。


集中する線分を成す壁と階層を分けられた床を多用し、画面を分割させ、それらが織り成す閉鎖的空間を階段や通路、ドアなどを用いて部分的に通じさせることで引き起こされる非現実感の利用は、エッシャーの他にはシュールレアリズムの作家、キリコやポール・デルボーの作品に直結している。シュールレアリズムは夢、すなわち目覚めと睡眠の狭間に発生するまどろみの状態から“無意識”へと辿り着こうとしたと言えるが、その時彼等が援用したのは美術史におけるまどろみの時間、すなわち覚醒と位置付けられていた盛期ルネサンスの直前に位置したフィリッポ・リッピだったと思える。


夢においては、個々の場面はそれがどのようなものであれ-例えば時間と場所がごっちゃになり、ありえない場所でありえない事柄が起きても-それを不自然だとは思えない。なぜならそれは、細部にあいまいな所がどこにもなく、小さなことでも確認したいことは全て確認できるからだ。つまりそれは“嘘”ではない。目覚めた後でそれが“嘘”みたいに思えるのは、覚醒した意識がもつ統一的に仮構された感覚からそれらの細部がこぼれ落ちてしまい、すでに確認できないためで、正確には夢を“嘘”っぽくさせているのは、夢そのものではなく「思い出す」という行為だと言える。


このバルトリーニのトンドでは、細部がきっちりと描かれ、見たいと思ったものはどれを注視しても間違いなく見ることができる。いわば暗示やぼかしがまったくない。しかし、それ故に、ある部分を見ている間は他の箇所がどうであったかは「思い出し」ながら見るほかはない。むろん距離をとって全体を視界に入れるのは容易だが、そのように見ていてすら、細部に視線がひきつけられ個々のものが同時には意識できないのがこの絵なのだ。壷のシルエットが向かい合う人の横顔にも見える、というのは錯視の代表例だが、ややそれに近い。この場合は一度横顔だと思えば壷は「思い出す」しかなく、壷を見てしまえば顔はやはり「思い出す」しかない。


フィリッポ・リッピの「バルトリーニのトンド」では、このような思い出しが、作品そのものを目前にしながら持続的に必要とされる。それはまるで、目覚めながら夢を見るような一種異様な体験となる。アンナとヨアキムの出会いを見ればマリア誕生の場面は「思い出す」しかなく、中央の聖母子を見ればこの絵の主題に近いアンナの物語りはやはり「思い出す」しかない。もっと細かい部分ですらそうで、例えば幼子イエスの持つザクロを見ると聖母子そのものが思い出すしかなくなるし、床面の市松模様を見ればそこを歩いている人は既に記憶を参照しなければならない。このように、あらゆる部分が明晰でクリアなのに、正にそのことによって絶えず何かを思い出さなければならなくなり、ついさっきまで確かだったことが今は記憶の中にしかない、という経験がなされる。


また、この絵の消失点にあるマリアの視線も、このような夢幻的感覚を与える。かすかにうつむき、まぶたを半開きにしながら、しかし多数の登場人物がいる中でただ1人だけ(消失点の中から)観客の目を見つめるマリアは、マリア自身が眠りと覚醒の狭間にいるように見えながら、観客を自らの位置に、すなわち夢を見ている意識に誘惑しているように見える。冷静に見れば、この絵の登場人物の中で、マリアだけが大きさの比例関係から外れている。右手手前、左手中段、右手上段奥と、人物群は徐々に小さくなりながら配されているが、マリアはこれらの関係から類推すれば明らかに大きい。つまり、マリアはアンナの生涯の物語りが主題となった世界の「手前」、現実の観客の世界と夢幻的絵画世界の狭間(まどろみ)の中にいる。