観光・イタリアルネサンス(17)

ラファエロ

ピッティ宮パラティーナ美術館でラファエロ「大公の聖母」。板に油彩で描かれている。1506年頃に作成されたとされている。高さ84.5cm×幅55.9cmの大きさがある。


ほぼ漆黒の色面を背景に、幼子イエスを画面右の胸元に抱いたマリアが描かれている。頭部からかけられた青い衣が、画面向かって左側でイエスを支える腕の肘までかかり、その下は暗く背景に溶け込む。全体に、画面向かって右のイエスと画面向かって左のマリアの肘を底辺に、マリアの頭部を頂点とした三角形が、暗い画面のなかで明るく浮き上がる。画面表面は艶をもち、画面上部やや右寄り、マリアの顔のすぐわきを通ってイエスを支える右手までと、画面左寄り、マリアの青い衣のへりのところから画面下までにかけてひび割れが走る。このひびわれは油絵の表面ではなく、基底材の板に入った割れ目と思える。マリアとイエスはややふしめがちで、それぞれの頭部の後ろには細い線で光輪が描かれる。


この絵のぬるりとした感触は、油絵の具というものの、ラファエロの扱い方にもとづく。粘度のある絵の具が、主に階調の滑らかな連続(グラデーション)を形成するように塗られ、それが画面の全てを覆っている。まるで皿を舌でまんべんなく嘗めていったような表面をしている。画面を保護するためのニスによってそれが強調されている所はあるかもしれないが、しかしこの、絵の具を組み上げていくのではなく均していくような筆の運びは、絵の主題そのものとも絡まりあっていて「大公の聖母」の骨格をなしているように見える。


濃密な黒と聖母子は明確な輪郭では分けられず、その境界は溶け込んでいる。この絵では、背景は背景として後ろに退き図の聖母子と分離されているのではない。黒は聖母子と一体となっていて、羊水のように画面全体を包んでいる。注意したいのが幼子イエスとマリアの視線で、イエスもマリアもまったく「外」を意識していない。マリアの目の向く先は、幼子イエスに向けられているように見えながら、実は微妙にイエスの位置までは眼球を回転させていない。その瞳はイエスよりもわずかに自分の正面、胸元側に向かっている。


観客、あるいは画面の外部を意識していない二人の視線は、各々の世界しか見ていないが、この「各々」は一なるものであり同じものとなっている。つまり聖母子が互いに無関心なわけではない。例えばやはり互いを見ていないマリアとイエスが描かれたフラ・アンジェリコの「嘲笑されるキリスト」(参考:id:eyck:20060112)の、位相が分断され互いを感知しえない作品と比べれるとその違いが明確になる。聖母とイエスは、画面の中で、一つの三角形としてあり、不可分となっている。「大公の聖母」でのマリアとイエスは、わざわざ相互に視線を送る必要がない程に一体なのだ。


「大公の聖母」の輪郭のぼかしは、レオナルドのスマフートとは全く違う。レオナルドにおいては、スマフートは輪郭を描く事の不可能性から導かれている。人物のような、入り組み、動きのある形態を描くとき、その輪郭は複雑すぎ、揺らぎすぎて描くことができない。目の前に人物を置き、画家が自分の座る所から、一見モデルの輪郭と見えるところを長い棒のようなもので指示しそこをマークしてゆくと、そのマークは違う視点から見ればまったく不連続になる。レオナルドのスマフートは、このマークを極端に微分し、ほとんど粒子的なまでに精密化していった結果成り立ったもので、そこには対象とその周りにある空間の恐ろしく複雑な関係が織り込まれている。


ラファエロのこの作品でのぼかしは、そのような関係を完全に排除したところで行われている。筆の長いストロークで背景とマリアの青い衣の境界をグラデーションにするような「大公の聖母」には、関係というものを発生させる外部がない。聖母とイエスは一体であり、聖母子と周囲の空間も一体であり、その全体は画面の外を遮断している。ほとんど子宮の中を念写で印画紙に定着したような絵が「大公の聖母」であって、ここには視覚、知覚といったものが存在しない。絶対的な他者としての神すら排除されていて、そういう意味では宗教画ですらない。むろん、ルーベンスの「イザベラ・ブラントの肖像」のような、画家の前に座る他者を、スポーティーな構築で組み上げる肖像画(参考:id:eyck:20060130)でもない。


「大公の聖母」はほとんどオカルトみたいな絵であって、ラファエロの他の作品とも一線を画している。同じパラティーナ美術館同室にあった1516年の「聖母子と子供の洗礼者ヨハネ」では、マリアは「大公の聖母」よりもきつくイエスを抱き締めているが、画面の外をはっきりと見る聖母、やや視線を右上に向けているイエスといった具合に、画面内にいるヨハネ、あるいは明らかに画面の外部を意識した警戒からそのような仕種が招来されている。「大公の聖母」での比較的ゆるやかな包容は、むしろそのような“危機”がまったくない、安定した空間をつくり出す。先行するペルジーノの「マグダラのマリア」(やはりパラティーナ美術館にある)でも、暗い背景から浮かび上がるようなマグダラのマリアの上半身の像があるが、このマグダラのマリアはまだ視線を観客に向けている。レオナルドというよりは、このペルジーノの技法を徹底したのがラファエロだと思える。


1506年というこの絵の制作時期も注目に価する。背景を描かずに真っ暗に画面を塗り込めても、つまり何も描かなくても「空間」が意識されるまでに、遠近法が人の意識を規定した、あるいはそのような状態を完成させたのが「大公の聖母」だと思える。遠近法への抵抗から暗い背景を要請したボッティチェルリ「春」、あるいは精神的深さは作図から成り立たされることを意識していたフラ・アンジェリコ「受胎告知」とも違い、ラファエロは真っ黒な(あるいは真っ白であってもいい)画面を作ればそこに自動的に空間=深さが産出されるという状況を作りあげた。この、オールオーバーな色面が深遠に通じるという認識は、遠くアメリカ抽象表現主義に繋がるように思える。