観光・イタリアルネサンス(18)

ラファエロ2

ピッティ宮パラティーナ美術館でラファエロ「エゼキエルの幻視」。1518年の作品とされている。板に油彩で描かれている。大きさは縦47.7cm×横29.5cmで、あまり大きくない。宮殿美術館の雑多な会場では多くの作品に埋もれていて、見のがしかねない。


縦長の画面上半分の高さに、両手を大きく広げた半裸の男が描かれる。下半身はマゼンタの衣でおおわれる。男は翼をもった2頭の獣に乗っている。その両腕を、キューピッドが支えている。画面向かって左手には、雲に近い色調の服を着た天使が男に向かって、胸元で両手を交叉させている。男と天使は視線を交わしている。背後には黄色い色面が広がり、グレーの雲が画面左上、及び右上隅にある。獣の下には雲があり、さらにその下、画面下辺には風景が広がる。右手から中央には川があり、左手には陸がある。画面左端には森のようなものがあり、そこに小さく鋭く光が雲から差している。中央に大きく描かれたエゼキエルの幻視の出来事は、ここで起きていることが推測される。


下段に(現実にあったとされる)風景、上段に神的な出来事が描かれる2層構造は、バチカン美術館にあった「キリストの変容」などの大形の祭壇画とほぼ共通した構成で、ある時期まで個人的な注文によって聖母子像か肖像画を描いていたラファエロが、公の場=大きな空間に置かれることになる作品を描き始めた時の、固定した方法だと言っていい。この構成は、後続のアンドレア・デル・サルトなどにも見られた。しかし「エゼキエルの幻視」は、大形の祭壇画と比べても人物の仕種が大きく演劇的だ。その動的画面が、図版だと広い面積を想像させ、実作のスケール感とのギャップとなる。表面は、やや板のテクスチャをイメージさせる。作品が小さいことが、わずかな板の感触を目立たせる要因になっている。


神秘主義との繋がりを指摘される「エゼキエルの幻視」は、その夢幻的性質はあくまでイメージ、物語りを背景に置いた像としての夢幻性であって、視覚の性質を突いたフィリッポ・リッピの「バルトリーニのトンド」が生み出す幻惑性とは異質となる。「エゼキエルの幻視」では、強いコントラスト(背景の高い明度と天使・獣の翼の暗部)と色彩対比(黄色・マゼンタ・青)、両腕を大きく広げる人物とそれを反復する天使達のシルエットによって強さを得ようとする。


しかしそれらは全て、画題に示されたとおり最終的に旧約聖書エゼキエル書が生み出す幻視=イメージ=物語りに従属している。この、イメージ=物語りへの従属は、「エゼキエルの幻視」のメディア的性質にあらわれる。単純に言って、この作品は印刷物で見た時の方がイメージが広がって見える。むろん16世紀の作品が印刷物を想定して描かれたわけではない。バチカンの大形祭壇画などでは、その物理的スケールによって見えにくくなる、後期ラファエロのイメージ=物語り的性質が、同じ構成を小画面で行った時に露出し、それが印刷物に載った時に拡大されたと言える。


レオナルドの提唱した1場面/1画面の形式は、レオナルドにおいてはその1つの画面にありとあらゆる関係性を圧縮し、個々の形態とその輪郭を複雑に組み合わせ、知覚上で極端な解凍作業をしなければならないものとして現れた。が、その追随者の作品においては単純化を免れず、大きな画面を組織するのが困難となる。その時持出された解決法が、画面内部の要素を増やしダイナミックな動きをつけるというもので、これが後のバロックに繋がる。その起源はルネサンスの多くの画家に散見されるが、単調な画面の解決策として明確にバロック的方法を意識し、それが後続の画家達に広汎に影響を与えたのはラファエロと思える。


ラファエロの、通俗性への意志は徹底している。ゆらぎのない構図、絶対他者としての神の排除、その結果招来される“ヒューマニズム”、物語りの重視、イメージに観客を没入させる自然主義、単純な画面が大型化に耐えなくなった時のバロック的解決と、以降の西洋美術史における退屈さの規範はほとんど全てラファエロに現れている。レオナルドの仕事場におもむき、制作途上のモナリザを模写したといわれるようなラファエロが、自らのそのような仕事に意識的でなかった筈がない。


いずれにせよ、ほとんど混乱そのものと言えたルネサンスの、とっちらかった分岐は、ラファエロによって完全に収束され回収され息の根を断たれた。ルネサンスを殺したのがラファエロだと言っていい。その殺意は、神=他の者の視線への殺意であって、この神=他の者の視線への恐怖が、ラファエロを駆動させ37才で夭折させたかのように見える。


大友克洋の漫画のAKIRAで、恐るべき力をもったアキラをめちゃくちゃに封印した絶対0℃室が描かれるが、その絶対0℃室のような存在がラファエロとも言える。そしてそのような封印を行ったラファエロの夭折後、つまり神=他の者の視線が殺された後の世界では、他者=神への恐怖が抑圧(内面化)され、その反動で「人間(エゴ)主義」の欲望があらわになりやがてロココにまで繋がる。


ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」では、17C以降の絶対王政下の宮廷文化、そこで繰り広げられる奢侈と恋愛が近代資本主義を回転させ始めたとされている。イタリアでは都市国家の分裂から強力な絶対王政が形成されなかったが、フランス・スペインなどの文化的には後進国ながら王政を育てていた強国が、たびたびイタリアに侵攻しそこにあった文化を文字通り略奪している。むろんラファエロは各王室の欲望の対象であったし、フレスコではなく独立した基底材に油彩で描かれたラファエロの作品は可搬性に優れ結果的にヨーローッパ中に伝播した。ここでふりまかれた神=他の者の視線の抑圧とヒューマニズムが、最終的に近代資本主義を起動させたと考えるのは、やや乱暴だろうか。