ギャラリー山口で行われている依藤奈々展を見た。キャンバスに油彩で描かれた絵画だ。まるで画面に自動車のタイヤによるブレーキ痕が刻まれ、その集積があるイメージをふと喚起してしまうような作品だと感じた。ここに見られるのは、画布と作家の身体の間に発生した摩擦あるいは抵抗の「力」で、そのような物理的な「力」がイメージと拮抗し、絡まりあい、とても強い何事かを生み出している。


大きなキャンバスにやや厚味のある絵の具が、何か平たい幅のある道具で長いストロークとして引かれている。用具は大きなへら、あるいはナイフのようなものかもしれない。白い地に赤、あるいは別の作品では青といった明解な色彩の絵の具が使われるが、1つの作品では基本的に1色、あるいは同系の狭いバリエーションで構成され、基本的に各々の作品はモノ(単一)トーンとなる。キャンバスは木わくにしっかりと張られ、この堅固な基底が作品を支えている。地の白は粘度のある絵の具の白で、画布の白ではない。


「花」と題された作品は、画面上辺から外へ膨らむような赤い曲線を何本も描きながら、それらが画面下辺、中心から向かってやや右にずれたところに集約していこうとする。「蓮」と題された作品は青の大きな縁が画面からはみだすように描かれ、その大きな円に接するような小さな円、あるいは同心円が幾重にも描かれる。「葉脈」と題された作品は、画面向かって左下にやや傾くような直線が引かれ、そこから支線が、やはり鋭い直線で発していく。1点やや小さなキャンバスに描かれた作品は、会場内で1点だけ縦にキャンバスが掛けられ、ストロークも縦に引かれる。濃い色彩のストロークの縁には黄色の層が見え、少し離れて見ると白い地が後退しストロークが前に浮き出て、まるでレリーフになっているような錯覚を発生させる。


依藤氏の作品ははっきりと「強さ」で成り立っている絵画だが、それは単なる暴力的な「観客への意図的な働きかけ」ではなく、画面自体の自立した論理によってもたらされている。だから、依藤氏の作品には無駄なものがない。依藤氏にとっての、絵画の構造だけがあらわになっている。構造という言葉を使うと、何か方法に還元され、誰にも流用可能なもののように思われてしまうかもしれないが、この絵にあるのは画布・絵の具・依藤氏の身体の生み出す力の、相互の緊張がもたらす微妙な均衡状態であって、それは依藤氏にとってさえ、可能かどうかがその度に問われるものの筈だ。そのようなゆらぎが生まれる為に導入されているのが、花や蓮といった植物のモチーフで、そのような外部の、個別のモノを一度「見る」ことによって、個々の作品がその時限りの一回性を孕むことになる。


依藤氏は過去、このような外部のモチーフを持たない、完全に画面内部でだけ完結した作品を描いていた(この作家のVOCA展出品作を、僕は1度だけ見ている)。そこでくり返し画面に描かれていたグリッドから、このような具体的なモチーフが入り込んでも、この作家の自立的構造は安易にイリュージョンに傾かない。むしろ、画面の外にある、1つの物と対話することで、そのストロークは豊かになり、1度1度の、絵の具を引くという行為が息づくことになっている。そういう意味では、蓮の断面を円と言う幾何学的形態に還元してしまった作品などは、やや機械的で硬直してしまっている。この作家は基本的に、何度も同じような線を引くことで作品を作り上げるが、花をモチーフにしたものは、その反復に見えながら個々に確かに違う線の性格が、全体で一つの形態を作り上げる直前であくまでばらばらな存在として画面内に散らばり、過去のグリッドによる作品よりも抽象性を増している。


ここで抽象性、といったものは、図像的な再現性のことではなく、実際の作品の前に立ったときに感知される、絵の具の物質的な立ち上がりを指してのことだ。依藤氏にとって赤、あるいは青といった色彩は、光の波長というよりは、絵の具と言う物質の抵抗感の現れとしてあるように思える。「色」が、単なる網膜的な像ではなく、客体的な存在としての物質の一つの断面として見えてくるのが依藤氏の作品と思える。そのような、絵の具の断面を露出するために、依藤氏は強い抵抗と摩擦をひき起こしながら絵の具を「轢く」。そして、そのような切断面を形成するために要請されているのが「強さ」なのであって、決して強さそのもの、画面のインパクトを上げることが目指されているわけでないことは注意して見る必要がある。


●依藤奈々展