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判断/予感。そもそも「良い絵」とは何か。製作であれ鑑賞であれ、今目前にある絵画が「良い」と(あるいは「良くない」と)確定できる事が常なのだろうか。実際の現場はほとんど逆だ。今、目の前にある絵が、「良い」か「良くない」かは、大抵の場合“明らかではない”。社会的文脈や美術史的評価は、強固に事前に措定されているが、今自分の目の前にある、その作品が自分にひき起こす「変化」は、それらとはやや乖離して発生してくる。
この絵には、何か気になる気配がある(かもしれない)。その気配が、肯定されるべきなのか、そうではないのか。何かこの「絵」は、「変」な感じがする。その変な感じは、何から発生しているのだろう。色彩か?マチエールか?図像か?構成か?あるいはその全てか?あるいはそれらの相互の関係か?本当にその変な感じは、絵それ自体から発生しているのか?この絵がある、この場所に起因しているのではないか?あるいは光線の具合だろうか?
もしかして、今日の僕は体調がおかしいのではないだろうか。そういえば、ちょっと胃のあたりがおかしい気がする。今まで意識もしなかったけれども、お昼に食べたパスタは量が多すぎだったのではないだろうか。昨日は寝不足だったかもしれない。何か異臭がかすかにする気がし始めていないか。この臭いはどこから来るのか。自分の鼻がおかしいのか?ここにさっきまでいた、自分では無い他人の残り香だろうか?そもそもこの匂いは、本当に「ある」のか?頭が痛む、というよりは頭がこるような感じがする。頭をかるく叩いてみるが、あまり改善しない。頭の問題ではなく、目が疲れているのかもしれない。あるいは姿勢が悪かったのかもしれない。自分は普段、こんなに猫背だっただろうか?そういえば、僕は普段、どんな姿勢でいただろうか?
この絵に(それが自分の作品であれ他人の作品であれ)手を加えたらどうなるだろうか。あそこに青を置くことで、何か変化があるだろうか。そしてその変化は「良い」変化だろうか。「良く無い」変化だろうか。その青は、いったいどんな青だろう。コバルトブルーか、ウルトラマリンか、それとも混色したものだろうか。その厚さはどのくらいが適切だろうか。ナイフで置くのがいいのか、筆で置くのがいいのか、手で直接触れてしまうべきだろうか。あるいは、絵の具ではないほうが「良い」のかもしれない。色紙や布でも切り張りしてみたらどうだろうか。逆に、加える、のではなく消去すべきなのだろうか。右の辺を、あと1cm切り落としてしまってはどうなるだろうか。あるいはもっと大胆に、下1/3を無くしてしまうというのはどうだろうか。そうではなくて、上下反対にしてみたらどう見えるだろうか。鏡に映して見てみると、何かが把握できるだろうか。
時間を置いて見てみたらどうだろうか。少し近所をぐるりと散歩したり、他の絵を見たり、トイレに行ったりしてみてはどうか。何かが変わって見える気がする。やはり青を加えるというのは過ちな気がしてくる。切り落としたり、上下を反転させることは「良く無い」気がする。しかし、それでもなお、この絵には「変な感じ」が濃厚にある。その「変な感じ」は、一度絵の前を離れてみたことで、より強くなった感覚がある。さっきの「変な感じ」と今の「変な感じ」は微妙に異なるが、その違和感自体が「変な感じ」を増幅させている。
だんだん、その絵を見ているのが苦痛になってくる。ちらちらよそ見をし始める。下がって見たり、極端に画面に顔を近付けてみたりする。画面全体が、周囲のものも含めて見えてきたり、あるいはごく一部だけが拡大されて、視界を覆ってしまったりする。もちろん、その表情は、そのたびごとに変化する。しかし、それでもなお、あの「変な感じ」は、消え去ってくれない。変だ。
何かを諦めるように、僕はその絵の前を離れる。戸外に出て、改めて晴れた空に浮かぶ雲や、道ばたに落ちているゴミや、追いこしてゆく車や、スレ違う人の姿を目にしている。しかし、もう目の前にはない「あの絵」の、「変な感じ」は、気分のどこかにしっかりと刻まれてしまったような気がする。それは既に記憶だとも言えるが、「思い出す」のとは少し違う。絵の図像を思い返しているのではない。単に、あの変な「気分」が、好きな人と会っていた後のように(あるいは嫌いな人と会っていた後のように)いつまでも残っているかのようなのだ。
そういえば、さっき感じた異臭はもうしない。頭痛もコリも感じない。姿勢も特に気にならない。なんだったのだろうかあれは。好きな人と一緒にいるとき、何気ない自分の挙動が急にぎこちなく感じるときがある。同じことは、嫌いな人といる時も起きる。逆をいえば、自分をそのようにしてしまうような人に会ったとき、その事が原因で、その人を好きになってしまったり、苦手だと思って嫌いになってしまったりする。どちらに転ぶかはわからない。しかし、一度「好き」あるいは「嫌い」と決まってしまうと、その結論は容易に覆らない。どうして「どちらか」になってしまうのだろう。中途の状態に置いておくことは可能だろうか。
そんなどうでもいいような事を考えながら、僕は何の根拠もなく、さっきまで見ていた一枚の絵を、「良い絵だ」と決めてしまう。あの絵にはもう手が入れられないと思う。なぜかはわからないが、どこに何をたしても、あるいは削っても、向きを反対にしても、意味がないと思える。あの絵は「完成」している。そして、あの「変な感じ」は、解けなかった宿題のように今でも残っている。しかし、その、解けない何事かが、自分と言う感覚を起動し、走らせ、混乱させた事を、僕は肯定したいと思う。この判断は根拠がない。しかし、多分、覆らない。絶対とは言わない。次に見たら、あっさり反対のことを思うかも知れない。あるいは何とも思わないかもしれない。だから、判断とは、常に「予感」でしかない(予感は直線的ではない)。