良い絵画、とは何なのかを問われて、すらりと答えられる人というのはいるのだろうか。それが例えば、ある「状況」に対して「有効」であるとか、「趣味として好き」だとか、そういう事に還元できるのであれば、どれ程簡単だろうかと思う。なぜそれが簡単なのかと言えば、描く立場に立ってみればわかる。「趣味」や「有効性」を信じていれば、真っ白な画面に対して、最初の一筆をいれる前から、その今だ成立していない作品の行方が確定できるからだ。


ある確立した「趣味」に基づくものならば、その「趣味」に対して正確な絵を描くというのは純技術的な話になるし、そのような確定した範囲での「上手さ」というものを獲得するのは、誤解を恐れずに言えばごく簡単な話だと思う。「状況に対する有効性」ということになれば、要求されるのは上手さというよりは「状況=文脈を読む」的確さになっていくが、これも一度「読む」ことができれば、描かれるべき絵は、描く前からあらかた確定されてくる。未だに日本のサブカルチャーを絵画に取り込むことなんかが「有効」だと思っている人は、的確さという意味では悲しいくらい鈍くさいと思うし、もう少し鋭敏な人であれば、そのような文脈に対して更にカウンターを与えるように「モダニズムの再検討」とか「情勢に対する社会的・政治的正しさ」といった「有意義な」設定をするだろうが、描く前から作品が出来上がっているという点では同じだ。


「良い絵」を描く事の困難、あるいは最もエキサイティングな事とは、白い画面に向かって置く最初の一筆が、いったいどこにどのように置かれればいいのかが、まったく不透明なところにある。何も抽象的な話ではなくて、単純に言って、一筆、また一筆と入れて行くその瞬間瞬間に、ほとんど途方にくれてしまうような逡巡がない製作というものに、僕はどうしても疑問を持ってしまうのだ。一般に、集中力が発揮できているような場面というのは、一心不乱に「仕事」に対して「迷いなく」邁進できている状況を指すかもしれないが、なぜそんな事ができるのかと言えば、そこには「正解」があるからで、そのような状況に陥った時こそ、僕の絵画のセンサーは警報を発し始める。そこで、迷いなく正確にくり出される筆致は、一体何に対して正確なのか?そういう検討=批評がなくなった時こそ、作品は「正解」に向かって自動運動を始める。そこにはほとんど知性のようなものは必要とされず、ただピュアにテクニカルな精密さだけが、つまり工学的な高度さだけが動物的白痴にのっかって回転する。そして、そのような作品は、観客に対してその「正しさ」を共有せよと指示しはじめるのだ。


「良い絵」とは、恐らくそのような正しさを措定できない、あるいはそのような措定から絶えずズレてゆくようなものなのかもしれない。この「良い絵」の難しさは、例えばこのような「正しさからズレる作品こそ正しい作品だ」というパラドックスに陥りがちなことだ。このパラドックスはいわゆるゲーデル問題みたいなもので、「私は嘘つきだ」という言葉が真か偽か、あるいは「この文章は間違っている」というセンテンスが真か偽か、という問題と同じ構造になる。純論理的に言って、「正しさからズレる作品こそ正しい作品だ」という命題は成り立たない。にも関わらず、真に謎なのは、この世界には、「良い絵」としか言い様がない作品が、厳然として存在しているというところにある。「良い絵」などありはしないのだ、と言い切ることができれば、それはそれで、恐らく幸福なことだろう。そこでは画家は、単に「効果的」な作品をロボットのように製造していればよくなるし、あるいは特定の「趣味の共同体」に向かって最初から答えの分かっている問いをくり返せばよくなってしまう。


「効果的な絵」あるいは「趣味的に正しい」絵というものを、ここではまとめて「正確な絵」と呼ぶが、僕がこのような「正確な絵」に疑問を持つのは、この「正確な絵」というのは、意識的だろうが無意識的だろうが、かならず「その正確さを共有できる仲間」を想定してしまうからだ。その仲間が多いか少ないかという政治がほとんど「正確な絵」の目指す最終地点で、そんな囲い込みは巧妙化して、「仲間が少ないから正しい」とかいう地点にまでいってしまう。仲間というのは、仲間になってしまった段階でその多少は関係がない。そうではない「良い絵」においては、そのような仲間は成り立たないと思う。単純に言って、「良い絵」においては、自分が一度「良い」と判断しても、時間を置いて再度見た時に「前回とまったく等しく良い」という保証はどこにもない。ここでは、過去の自分と、再見した時の自分すら「仲間」ではなく、むしろ対立したり無関係になりかねない「他人」になる。


そして、「良い絵」の強さというものは、このような場面にこそ表れる。過去に見た時と、今見た時に感受される「良さ」は必ずしも重ならず対立したり無関係になったりする。しかし「良い」という判断それ自体は揺らがなかったりするのだ。このように、自分自身すら「仲間」として確保できなくなると同時に、いかなる趣味や背景も共有しない人にも「良い」と(その「良さの中身」は人によって、あるいは時間によっててんでばらばらかもしれないにも関わらず)思わせてしまう作品こそ「良い絵」なのであって、そこでは「多数の支持」も「少数の(エリートの)保証」もありはしない。ただ単に、まさに“歴史的に”「良い絵」が成り立ってしまうのではないかと思う。


当たり前だが、自分がそのような「良い絵」を描けていると言っているわけではない。むしろ結構「集中力」を発揮して「正確な絵」に没頭して我を忘れてしまったり、「迷い」に溺れてしまって(こういう事もあるのだ)迷路にハマってしまったりする事の方が多い。結局、こういう製作こそ「正解」だという居心地の良さを安定的に保持することなどできない、という当然と言えば当然の答えしか出ないのだが、そのような、反復できないものを反復してゆくような製作にしか、僕は面白みを感じないのかもしれない。