DVDでミスティック・リバーを見て、すっかり暗い気持ちになった。これが映画として見事だというのは間違い無いと思うが、なんというか、生きるのが全体にイヤになる。隙のない構成と見事なカメラワーク、ことにその色彩に関しては、こんな青はちょっと他では見られない青なのではないかと思える程の凄みを感じさせる。青という色は光が退潮していくとき目が感知できる最後の波長だ(プルキンエ現象)。この青が、映画の構造と一体になって強く目に残っていく。


ミスティック・リバーが写すのは、日頃何気なく流しているような僅かな権力関係が、時に決定的な暴力となって全てを損なってしまう、ということで、しかもそのような暴力は“日常的な権力”によって、流れる時の中に沈められていってしまう、逆に言えば“日常”というのはそのような暴力を内包している(もっと言えばまさに流れていく日常こそ暴力そのものですらある)、ということだ。ミスティック・リバーという映画の俯瞰は、様々なものが沈み、表面化することなく流れている川と、まったく同じように舞台となる町、そして主人公達にとって決定的な意味をもつ通りを写し出す。川=通り=町=日常が押しながす暴力は、死者の、奪われて行く視線によってしか捉えられることはない。そしてその視線は、消えていく光りの中でギリギリまで残り続ける青によって染めあげられていている。


川べりの町で遊んでいる、一見対等に見える3人の少年達は、実はその内部に極めて微妙な権力関係を孕んでいる。その3人に犯罪者が近付き、一人を拉致して性的虐待を行うのだが、このとき「選ばれた」少年デイブは、決して犯人や運命に無作為に選ばれたのでは無い。3人の中で、漠然とした、しかし覆り様もない「弱者」(この位階関係は、例えば生乾きのコンクリートに名前を刻む順番に表れている)が適格に選ばれていて、つまりむしろジミー、ショーンといった残り二人とデイブのつくり出す権力関係がデイブを犯罪者の元に送りだしたのだ。そして、この子供の頃にあったデイブを底辺とする「権力関係」は、ジミーとショーンに建物の高い所から無言の非難を投下するデイブの真っ暗な顔によって逆転する。この事実が了解されていなければ、後にジミーが後に自らを罰するように人の罪を引き受けて捕まったことも、ショーンが警官になったことも見えてこない。


この映画で重要なのは、ジミーがデイブを追い込んだシーンでデイブによって語られる「あの時車に乗っていたのがお前だったら」という台詞に続いてジミーが「だが、乗ったのはお前だ」と言う所にある。隠然と行使されていた少年の頃のジミーのデイブに対する支配/権力はデイブを決定的に損なう。そしてその後の人生においてデイブの歪んだ存在ははジミーを決定的に歪めている。この相互の暴力はけして表面化しないが、それゆえに成長し続けている。これが水面上に出た時、デイブはジミーの娘を殺していないにもかかわらず「殺した」と言う。むろん想像的世界での事だが、デイブはジミーとの関係において、ジミー(の娘)を殺していたし、だからこそジミーは、実際に娘殺しの犯人ではなかったデイブを殺した上でショーンに「デイブは車にのってつれて行かれた時にいなくなった」というだけだ(いわばデイブはジミーとショーンに既に殺されていた)。


このような、日常であるが故に、その流れの中に沈められ押しながされる権力関係と暴力は、ミスティック・リバーにおいては、あちらこちらに様々な形で遍在している。ジミーの娘を実際に殺した兄弟とその兄の間、あるいはショーンの属する警察組織(そのあまりに日常的すぎてひっかかりを失っている違法捜査や差別的態度はくり返し描かれる)、ジミーの娘が家出を考えることになった家庭にもそれはあり、デイブの家庭にもおそらくあった。少しずつ、しかし持続的に反復されつずける力、そしてその関係は、時として決定的なカタストロフをおこし、その度に死が、誰かから光を失わさせてしまうのだ。この、色彩を失っている日常という流れを、反転させた形で完璧に捉えているのが終盤のパレードのシーンで、この色とりどりで鮮やかなパレード=流れは、しかし鮮やかであればあるほどに空虚で嘘臭く、お互いに殺人を起こした事をどこかで知り合っているジミーとその仲間、ショーンをその中にまぎれさせ、消し去ってしまう。そして残された、ある意味最後のツケを(そうとも知らない内に)かぶされたデイブの妻とその息子は、互いをそこで見失いそうになる。


このパレードと見事な対になっているのが、真っ青な川面を嘗めて撮影して暗転させる最後のショットで、このあまりにパーフェクトなラストシーンを見た後は、しばらく呆然となって動くことができない。「ミリオンダラー・ベイビー」もそうだったけど、今、ラストシーンが暗転して、しばらくしてから静かに音楽が流れだしスタッフ・リストが写されるという、いわば映画の中かそうでないのか微妙な時間を、ここまで十全に機能させることができるのはもしかしてクリント・イーストウッドだけではないだろうか。率直にいって、イーストウッド作品において、このスタッフ・リストの流れる時間を途中で切り上げてしまうことが、劇場でもDVDでも僕にはまったくできなくて、アルファベットの羅列をただ追いながら、どこか「この時間が終わってしまうのが恐い」とすら思ってしまう。ことにミスティック・リバーという映画が、真に恐怖を感じさせるのはこの最後のスタッフ・リストの流れる所だ。明らかに観客が“自分の日常”に帰還する事こそが最大の恐ろしさとして立上がってしまう映画で、そういう意味では希有な作品だと思う。