雑記。ここしばらくは天候が不安定で、晴れていたと思ったら急に真っ暗になったり、天気雨がふったり、ひょうが降ったりした。特に自宅で制作していた時に降ったひょうは迫力があって、なんか荒れた感じの雨だな、と思っていたらだんだん音が硬質なものになり、窓を開けたら大きな白い粒がアスファルトに一面跳ねていてびっくりした。あんまり音がハードなので、配偶者の古い車が心配になり、風呂場用の足拭きマットを持って外に出たら、なんか大人の奥歯みたいな氷が散乱していた。車はおんぼろのわりにボンネットもガラスも無事で、そんなこんなしてるうちにひょうはまたたくまに雨に戻ってしまい、肩すかしな気分で部屋に戻った。玄関先でつまんだ氷のかけらは、じんわりと指の間で溶けた。


こういう季節は光がダイナミックに変化して、とても世界が美しいと感じる。制作部屋からは大家さんがやっている梨畑が近所の小さな川まで広がっているのが見えるのだけど、雨に濡れた新しい緑が、さーっと開け始めた晴れ間から差す西日に照らされると、この世のものとは思えない程きらきらと輝き始め、しばらく制作の手を止めて呆然と眺めてしまう。こういうのって、場合によっては「自分は何をやっておるのだろう」という、意味のない無力感に捕われたり、気持ちが途切れたり心的状態が変化したりして絵を描く途中ではあまり良いことではないのかもしれない。けれど、僕はこの部屋の窓からの眺めが気に入っていて、光が変りすぎて基準がよくわからなくなったり、目のコンディションが狂ったりしてしまっても、気が向いた時は窓を全開にしておく。真夏や真冬は長時間はやっぱり無理なので、1日中開けていられるこの季節は、やっぱり大好きだと思う(自分の誕生日月が大好きだなんて、いい年をして恥ずかしいからあまり言わないけど、これは10代の頃からずっとそうだ)。


今制作しているのは100号とか、それをこえるようなサイズの絵で、昨年制作していた絵が細かいものばかりだったから、なにか体や部屋の使い方がいろいろと違う。昨年は端切れのような画布に、もう逐次的に絵の具を乗せていたのだけど(フレームを無視していた)、今描いているのは、木枠に張った状態で描いているから、すごく全体のフレームとの関係性を意識させられる。こんなことは普通に今までもしていた事なのだろうけど、やはり「続けている」というのは恐いもので、なんとなく惰性になって意識が薄れていたと思う。昨年のような制作を続けていた後で改めて「木枠に画布を張って描く」というあたりまえのことをすると、すごくクリアになる。もちろん、だから上手くいく、というわけではない。ただ「自分のやっている事」が明確に見えて来る、というだけだ。こういう状態は不思議なもので、徐々に「他人からの評価」の比重が下がってくる感じがある。


もちろん、人に誉められれば嬉しいし、批判されれば落ち込むし、うーんちょっと、という顔をされれば悩んだりもするのだけど、どこかで作品が「僕の気持ち」とは別途に、自立的に展開しはじめるところがあって、僕が悩もうと浮かれようと、勝手に作品が動き始める感覚がある。当たり前だけど、それが「良い」ことかどうかは分からない。また、本当に自分から作品が切り離されてしまうわけでもない。そして、作品が自立的に展開するほど、どこか「これでいいんだろうか」という不安が逆比例的に増大する。もっと自分と作品がぴったり寄り添っていた感覚の時は「良くも悪くもこれでいいのいだ」と開き直る(しかない)部分があったのだけど、どうもそのような開き直りがきかないで、いつまでたっても「これでいいんだろうか」と戸惑ってしまうのだ。分かりやすい言い方をすると「どこで作品を終わりにするか」という見きわめが難しい。以前であれば「自分が終わりだと思ったら終わり」だったのだけど、いまは「作品が終わりにすべきだと言っている」タイミングを、自分の心的状態とは切り離して判断しなければならない。


殻々工房での展示がもうすぐ終わるのだけど、久しぶりに見にいったら、やはり半年ずっとお店に置いていた影響と言うのはあって、つくづく勉強になる展示だったなぁ、と思った。それとは別に、絵そのものの組成に関しても、画布と絵の具のコンディションにいくつか予想外の事が起きていた。「長い期間人に見せている」という経験が少ない人間としては、今すぐ参考にしなければならないような気付きがある。それにしても、昔の寺院の絵とか、相当な悪コンディションの中で(日光が差したり蝋燭が一晩中ついていて煙りがでたり)、しかも100年の単位で見つめられ続けているというのは、相当な「力」が絵にないと厳しいだろうなと思った。つまり、多少表面がよごれたり色が変化したりしても、なおかつ“機能”する、絵としてのパワーが必要なのだ。もちろんそこには今では得られない宗教的象徴性の力とか図像的文脈の力があるのはたしかだけど、別に異教徒で無知な人間であっても、かなり剥落したイスタンブールのアヤ・ソフィアのギリシア正教のモザイクに感動しうるだろうし(僕は未見。テレビの映像でしか知らない)、当時とはまったく違った状況下で唐招提寺の仏像(東博に来ていた)を見ても、それがやはり造形物として一定の見事さを持ったものであることは、分かってしまう。


ルーブルのニケ像は頭がなく、円徳院長谷川等伯はかなり劣化している。それでも、「単に伝わる」というレベルではないものがある。物凄い水準に、たくさんの作品があって、そういう事を考えると自分の作品の「弱さ」に目眩がする。とはいえ、同時にそれは元気が出ることでもあるはずだ。すべきことが豊かにあるわけだ。