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アトリアでの展示に関して。今回、僕はキャンバスを会場の床に近接するように展示した。質問されることが多かったので、とりあえずの材料(作者が“解答”を持っているのではないので、こういう言い方になる)を書いておく。構造としてはあくまで壁にかけているのだが、床に置かれているようにも見えるはずだ。これはけしてインスタレーションのような意識ではなく、「平面」とか「絵画」とか言われる奇妙なものの性質を考えるためのものだったと思う(曖昧な言い方になるのは、けしてそれが事前に狙ったものではく、思考の経路の過程としてあるからだ)。絵画は彫刻や建築との関係でしか確定できないし、しかしそこでなおかつ「絵画」というものが(あたりまえのように)成り立つのは、物凄く簡単な話し「壁にかける」という操作があるからではないか。
逆の事も言えて、どのようなものでも「床に置く」という操作をすれば彫刻として認知されてしまう。もっと言えば、「地面に置く」という操作をしてしまったものに「住んで」しまえば、それは建築になってしまう。公園にシートやダンボールを置いて「住んで」しまえば、それは住居だ(坂口恭平氏の「0円ハウス」を見れば分かるように、そのような住居のいくつかは明らかにアーキテクチャーとして成り立っている)。僕の作品はどのようなものでも床に置かれた状態で描かれる。つまり制作期間はほとんど「床に置かれている」。それが、展示の際にあっさり「壁にかけられ」、絵画であることが自明とされた瞬間、フレームの枠内だけが鑑賞対象となり、それ以外のものは棚上げされてしまう。
では、そのような棚上げ=壁かけという操作を、極端に低く設定して絵画というものの境界(あるいは狭間)に作品を置いたとき、その作品はどのように見えるのか?これは、思考の順序から言うと最後から(展示が終わってから)見えた事で、実際は少々複雑になる。例えば今回出品した、極端に細長い作品は、ロールキャンバスの切れ端に描かれ、描かれ終わってから張られる。この場合、作品はパネルの“裏側”にまで及んでいる。これを壁にかけたとたん、側面や裏側は「なかったこと」になるし、場合によってはむしろ「邪魔なもの」「不要なもの」になってしまう(例えば殻々工房での展示で、内海聖史氏が「どこまでが作品なのか」と言ったのはこの点だ)。しかし、裏側まで作品である、という事を示そうとして床に置いたとたん、それは「彫刻」になる。ここで困るのは、彫刻を作っているわけではない、というのと同時にそれが絵画である、という前提が怪しくなってしまう、ということだ。
更に正確に言えば、やはり僕は絵画を描こうとして(つまり絵画という歴史を踏まえて)制作してきたのに、なんだかいつのまにかそこに上手く綺麗にハマらないものになってしまった、ということになる。木枠にキャンバスを張ってから描かれた作品も、このジレンマから逃げ切れない。例えば、今回の作品では、木わくに張った画布=基底材が、そのまま絵画の「基底」にもなるような制作をしている。以前の制作(例えばこんなのhttp://www.tcat.ne.jp/~kyouichi/page/painting18.html)では、絵の具を何度も繰り替えし積み重ねることで「基底」を構築したのだけど、そうではなくて基底材がそのまま基底たりえる筈だ、というのが今回の大幅に画布が見えている作品だ。こういう構造を持った作品は、必然的に基底(材)が木わくの裏側にまで及んでしまう。それが見えないようにする、という工芸的配慮を拒否したとたん、僕の作品は容易に壁にかけることが難しくなってしまったのだ。
絵の具がキャンバスのへりから微妙にはみだしてしまったタッチがあるのだが、このはみ出た部分は邪魔なもので排除すべきものなのか。いわゆる綺麗な仕上げを重視すればそういう事になるのかもしれないが、しかしそれを「含めよう」と思った時、その作品はどのような在り方をすべきなのか。おおよそこのような思考経路から、今回のような展示に至った。