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荒川修作+マドリン・ギンズはマテリアルを無視・軽視する。にもかかわらずインストラクションをマテリアルに落とし込む。この亀裂が荒川修作+マドリン・ギンズの作品には共通して現れる。「奈義の龍安寺」では円筒形の内部に京都・龍安寺のコピーが円筒の中心軸を挟んで対象に置かれている。この龍安寺石庭のコピーのおもだった部分はおそらくFRPと思える樹脂で形成されている。この対になる石庭を挟む円筒内部の下部、床として機能する部分はコンクリートで、ここに円筒の中心軸に沿ってシーソーがあり、その先に鉄棒がある。真南に向かった円筒の断面はやはり樹脂系の素材の不透明な白い板で塞がれている。真上にはシーソーと鉄棒が床面と対象に、ただし1.5倍に拡大されて設置されている。ここの素材はわからない。
ここを訪れた人、ことに子供は、特に事前に予備知識がなくても、この湾曲した円筒内部の石庭コピーを駆け上がってみたくなる誘惑にかられるだろう。一般的な美術作品を「鑑賞」するのではなく、身体的に「体験」することがこの「奈義の龍安寺」の、正しい使い方であることは、用意されている前室を通過することで来訪者に教育される。いわばお化け屋敷的な感覚をあたえる真っ暗な前室の階段をあがってきて、円筒内部に入ったものがすぐに了解できる「体験」とは、シーソーと鉄棒で遊ぶことであり、鉄棒で逆上がりでもしてしまえば、どうしたってこの円筒内部の「庭」をぐるりと“反転”してみたくなるように設計されている。そして、実際にそうしてもみるだろう。だが、ここで来訪者は意外な困難にぶつかりその行為が遂行できなくなる。その困難とは他でもない、FRP樹脂で整形され円筒内部に接着された石庭の強度が不足していて、駆け上がり石庭内部に力をかけるとその造作を破壊してしまうのだ。コンクリートの床と石庭のへりにある縁石のコピーに力をかえるとはっきりとぐらつき、今にもはがれそうになる。事実一部ではすでに破損して縁石がはがれ、下層の木材が露出している。石庭の砂を模した樹脂の粒は力をかけるまでもなくぽろぽろと剥離し、床にこぼれている。対面の石庭の垣根、というか壁は薄いスチレンボードが化粧されただけのもので、ここにも大きな亀裂があり、スチレンの断面が露呈している。外部の光をかなり通す南面の樹脂版はぺこぺことしている。
「奈義の龍安寺」では、けして壁面を駆け上ったりすること「だけ」が重要なのではないにしても、このような素材面の強度不足から円筒内部での来訪者の身体の「在り方」が影響を受けるのはけして小さくない「穴」になってしまう。ここで荒川修作+マドリン・ギンズは、純粋にデザイナーとしての立場に特化している。つまりアイディアを出し、デザインし、発注して仕事を終えている。このこと自体は別段なんの問題もないが、しかし荒川修作+マドリン・ギンズは、ほとんどまともにチェックもしていない、というか事実上このような、現実的マテリアルレベルの出来事に興味を持っていない。荒川修作+マドリン・ギンズにとっては、アイディアとしてのインストラクションを実体化させてしまった、そのギャップの「イメージ」こそが重要なのであり、現実に組み上がったマテリアルレベルには関心がない。このことは「養老天命反転地」を訪れたものにはすぐに了解できるだろう。その施行水準の乱雑さ、ここのインストラクションを実行するためのオブジェクトの、作りのラフさは壮快なほどで、荒川修作+マドリン・ギンズがマテリアルレベル、ことにそのサーフェースに興味を持っていないことは一目瞭然だ。だが、ここで「奈義の龍安寺」のマテリアルレベルの「雑さ」が問題点であることがわかるのは養老天命反転地のサーフェースによってではない。むしろ、養老天命反転地では、どんなにサーフェースが汚らしくとも、実際に身体と関わるようなレベル、要は単純な強度は十分考慮されているのだ。すなわち、養老天命反転地は、あのインストラクションを「イメージ」するだけでなく、即物的に身体を駆動させることが出来る。しかし、「奈義の龍安寺」では、そういうことはできずにインストラクションは「イメージするだけ」になってしまう。円筒形内部の造作物を壊してしまうことに抵抗を覚えてしまう来訪者の制度性が問題、というのは言っていえなくもないが、これは「奈義の龍安寺」のオブジェクトレベルへの荒川修作+マドリン・ギンズの無関心を補填するようなものではない。そして、おそらく、養老天命反転地の施行の即物的強度は、施工者の仕事とそれを規制する法律の問題であって荒川修作+マドリン・ギンズの意図ではない。
荒川修作+マドリン・ギンズの、マテリアルレベルへの無関心が更にはっきりわかるのは「三鷹天命反転住宅」だ。この、実際に住宅として人が住むという、即物的な強度や世俗的法律に沿うことが求められるプランで、荒川修作+マドリン・ギンズのモノへの無関心はユーモラスなくらいに露出する。なにしろ窓のサッシはトステムで、洗面所とキッチンがTOTOで、エアコンはナショナルの既製品が無造作に備え付けられているのだ。室内のダクトや通気口のプラスチックのふたの、まるで「そんなものはありませんので見えない筈」とでもいわんばかりの適当さは、一見ビビッドな色彩にもにじみ出る。コンクリートの上に厚く塗られたペンキの質感の安っぽさは、養老天命反転地の仕上げや、「奈義の龍安寺」のはがれた石庭のFRPやスチレンボードと共通のものだ。更にいえば、荒川修作+マドリン・ギンズの主著「建築する身体」という本にも同様の構造がある。表1+表4が3色刷り、内部が簡素きわまりない組版で1色刷りというこの書物は、造作の安さが「三鷹天命反転住宅」や「奈義の龍安寺」、「養老天命反転地」とまったく同じだ。これが、例えば安価に作って流通を促すという戦略性に基づいているとは思えないのは、3色刷りの表紙回りの版数が、実は無駄に多いことに見てとれる。表1が青とピンク特色の2色刷りであるのに、表4には更に墨版があるから3版になるのだけど、この青版と墨版が分かれている合理的理由はない。青版にまとめてしまえば1版分安価になる。青とピンクの対比が荒川修作+マドリン・ギンズにとって重要なのは理解できるが、墨版があるのは単にずさんなだけとしか思えない。こういうチープさが、まるで遊園地か幼稚園のように人の心を解放する、というような言い方は安易にすぎる。
荒川修作+マドリン・ギンズは、マテリアルの操作能力がない。これは画家が絵の具を扱えないように、ダンサーが身体を扱えないように、建築家が空間を扱えないように致命的な欠陥になる。なぜなら荒川修作+マドリン・ギンズが操作しようとしている環境と身体から、マテリアルという側面を無視することはできないからだ。それらが無視できないからこそ荒川修作+マドリン・ギンズは一度取捨したマテリアルを再召還し、インストラクションを実体化する行為を続けてきた。にもかかわらず荒川修作+マドリン・ギンズはマテリアルが扱えない。また、技術的な向上をする契機もない。あとは「養老天命反転地」がそうであったように、そしておそらくは「三鷹天命反転住宅」がそうであったのであろうように、施工者の意識だけが問題になっていくのだけど、ここに現状希望は見えていない。こういった状況は、危険な「プロセス」の軽視につながっていく。一般的な解釈は逆だろう。すなわち、想像力の革命を企てた60年代のムーブメントが、しかし「想像してみなさい」と言うだけで現実的な変革に挫折した、その挫折をけたてていくようにインストラクションの実体化を通じて「現実の革命」に乗り出し、その困難を引き受けているのが荒川修作+マドリン・ギンズだ、というように。だが、まさにそのようにあろうとした時、荒川修作+マドリン・ギンズの「マテリアルの操作能力の無さ」が致命的なものとして露出してしまう。『人類は、どのようにすれば死なないかを学ぶ最大の道具を、いまだ利用できていません(「建築する身体」より)』、このような問題意識を持ちながら、その即物的実行の能力のないものが「実行」を行うのは危険だし、この危険を増幅するのは、先導者というよりはその教えに帰依しようとする追従者であることは、1995年3月20日に多くの人が経験した筈だ(参考:id:eyck:20070731)。
荒川修作+マドリン・ギンズが相対的に扱えるメディウムは「言葉」だけだ。僕がこのユニットにおけるマドリン・ギンズの重要性を強調したいのはここに理由がある。多くの荒川修作+マドリン・ギンズを肯定的に語る人々が、なぜか荒川修作だけを重視してマドリン・ギンズを無視、あるいは軽視している(単にこのユニットのことを語るとき、「荒川は」とか「アラカワは」としか書かない)のは、彼らが荒川修作+マドリン・ギンズのメディウムに対する能力が見えていない、もっとはっきり言えば彼らの「パフォーマンス」だけを受けとって、「作品」を見ていないからではないか。彼らは自身が言うようにアーティストではない、というなら、その在り方はどこかで短絡的な宗教テロリストに近似してしまうし、あくまでアーティストとして見るならそのマテリアルの操作能力の無さをきちんと指摘するべきだろう。言うまでもないが、僕は荒川修作+マドリン・ギンズが「工芸家」になるべきだと言っているのではない(むしろ彼らが日本的工芸性を持っていないのは評価する)。そういう意味では、やはり「養老天命反転地」が最も素晴らしい「作品」であると言っていい。「奈義の龍安寺」はビジュアルなイメージの完成度は最も高い(事実、僕が訪れたときは雲が太陽を横切るたびに変化する光量が不透明な樹脂の壁を通過して美しく円筒内部に反映し、床に座ってその光をみている時間は素晴らしい経験だった)が、いかんせんイメージの実現だけで終わっているし(つまり「使えない」)、「三鷹天命反転住宅」はもっとも中途半端なものになっている。