関西を回っていた時は岡倉天心の「日本美術史」を読んでいたのだった。平凡社ライブラリーから廉価で出ていて、図版がないのが苦しいものの携帯性能は高い。とにかく岡倉は足を使って日本中(というか世界中)回っている。旅行の間ずっと、どこかで「これは岡倉が見ていたものだ」という感覚がついてまわった(奈義町現代美術館と大原美術館は例外だけど)。伝統的な日本美術のほとんどは岡倉+フェノロサが再発見したものと言っていいのではないか。19世紀ヨーロッパで確立した「Art」という体系を把握したうえで国内の仏像や障壁画等を「美術」として布置し直したのが岡倉なわけだ。その意味では、むしろ東京美術学校設立や日本美術院等の、明治以降の日本美術に対する関与よりも、それ以前への遡行的仕事の方がボリュームとしては大きい。行く場所いたる所で岡倉の存在が残っている(金刀比羅宮の宝物殿には岡倉が残した書面が展示されていたりする)し、見る作品の多くが「日本美術史」には出て来る。岡倉がこれらを「美術」という、それまで日本になかった概念で捉え直した、そのプロセスが無かったらこういう形態で我々がこれらの事物を「作品」としてまなざすことはなかった。むろん、その「美術」への体系化の中で失われたものが膨大にあったとしても、よきにつけ悪しきにつけ、このような仕事があったからこそ、それへの批判が可能なのだ。


あまりに「日本美術史」が“使える本”だったので、帰ってきてから慌てて「茶の本」「東洋の理想」「日本の目覚め」を読んだ。「日本の目覚め」は古本屋で買った昭和15年岩波文庫で、表紙のハトロン紙がほろほろと崩れた。五浦の六角堂では野沢二郎氏の作品展示があり、知り合いの方の車に同乗させてもらって遠征した。芸大美術館の岡倉天心展も見に行き、ここ一ヶ月ほど断続的ではあったが、岡倉の事を考える機会が多かった。そして、この異常な人物の射程は、「使える」というスケールではないことがようやく理解できた。正確に言うなら原理的な「超々遠距離砲」としてのスペックを持ちながら、めちゃくちゃ即物的な実用ナイフであることも求められていたのが岡倉で、歴史的という概念のない場所で一から「びじゅつのれきし」を作り教え、美術館・博物館の準備をし、そして美術と言う概念の確定までを同時進行でやっていた。異能きわまりない。私は以前、橋本治を日本美術の羅針盤としていたことは繰り返し書いてきたが、いまやその役目を岡倉に移行させた。私が平気で使っている「日本の美術」というフレーズを何もない所からつくり出す作業の中で、岡倉が直面せざるをえなかったのはそもそも「日本」とはなんなのか、「美術」とはなんなのか、という問題だ。岡倉にとっては「日本」も「美術」も自明ではなかったし、結果どうしようもなくフィクショナルなものだっただろう。その虚構に岡倉がつまづかなかったのは、彼が常に個々の作品と接点をもち、そこを基礎に据えていたからだ。


芸大美術館の岡倉天心展は、やや資料の羅列に近かったものの、そのぶん岡倉の姿は分かりやすく見せていたと思う。上に書いたことと重なるが、雑務からコンセプトの確立まで、レベルの異なる仕事を全部同時に遂行できる(しかも20代半ばで)超人的な優秀さが、美術学校の立ち上げと運営という現実的なプロジェクトの痕跡には露出している。それこそ予算の獲得からそのための書類作成、教授の人選と個別の折衝、そして授業まで、岡倉はほとんどなんでもやる。そしてそのような現場的(というか現実的)資質と、なおかつ思想的な水準の高さが、乖離することなく一体化している。企業であったら、経営方針を確定する社長・役員から現場の営業、更には総務から経理までを全部一人でやっているような状況に近い。理由は簡単で他に人がいないからだが、それにしたって「出来てしまう」というのはどうかしている。思想的に優れた知見を持つ哲人、というのは貴重ではあってもいなくはないだろう。あらゆる事務手続をこなしてしまう優秀な官僚というのもイメージは湧く。膨大な経験を元にした鋭い「目利き」もそこそこいるだろう。しかしこれ全部を1人の青年が備えているというのは、ちょっと理解の範疇外だ。ジェネラリストでありながら、各分野で十分以上にスペシャリストとして機能している。ややアレだけど、岡倉が東京美術学校を去るきっかけとなった「怪文書」が展示してあってゴシップ的な興味から面白く見た。まあ中身はどうでもいいような低劣きわまりない誹謗中傷なのだけど*1、こういうものがきちんと保管されていたというのが可笑しい。


岡倉の展覧会としては、2005年のワタリウム美術館での岡倉天心展は、展示資料自体は断片的ではあってもコンセプチュアルだった。岡倉の、中国・インドにおよぶ長大な足跡をイメージさせる、一種の身体性が感じられる展覧会で、岡倉にとって「世界」あるいは「アジア」といった言葉は、生々しい実感を伴っていたことが見られた。会場には六角堂の一部が再現され、プロジェクターで五浦の海を写し出していたのだが、しかし実際に五浦に行ってみて驚いた。岡倉が一目惚れしたという海は確かに素晴らしい。天気に恵まれたのもあるが、突き出した岬から見える大平洋はむき出しで、エネルギッシュな波が絶えまない。六角堂内部に設置された野沢二郎氏の作品は十分優れた作品だったが、以前内海聖史氏が言っていた「空や太陽と勝負するのは厳しい」という発言を思い出さずにはいられなかった(そのかわり、旧岡倉邸内部に設置された油彩絵画は、極端に縦長の構図とモノクロームに近い色彩が、ほとんど水墨画のように和室にハマっていた。だが、内部に立ち入ることができず窓越しにしか見られなかったのは残念だ)。五浦の海を見ていると、岡倉がどのような「目」を持っていたのかが漠然と推測される。終わる事のない力、高濃度の力場の波動をもつ「出来事」を見分けていたのが岡倉で、このような波動を持つ事物を岡倉は愛したのだろう。時間がなくてかなわなかったが、許すなら確かに1日でも眺めていたいような海だった。資料館の展示はやや小規模だったが、隣接する岡倉の墓と合わせて、遠くまで出かけて見てよかったと思えた。


「東洋の理想」や「日本の目覚め」を読んで、そこにナショナリズムを見るのは当然だが、しかしそのナショナリズムとは、いったい何のためにあるのか。岡倉は単純な保守主義者でも反動的伝統墨守者でもない。岡倉が考えていたのは、いわば、近代というものの別の在り方、近代のオルタナティブの提示であって、いかなる意味でもプレモダンへの回帰を唱えたり、ましてやポストモダニズムを先取りしていたのでもない。岡倉的な言い方をすれば「東洋的」モダニズム、という可能性を探索していたといっていい。以前、私はモダニズムアウシュビッツヒロシマを産んだと書いたが(参考:id:eyck:20070914)、いわば事前にそのような危険性を察知し、回避するためにありうべき“東洋的モダニズム”を求め続けたのが岡倉だろう。「東洋の理想」を読んで、また「日本の目覚め」を読んで思うのは、ここで書かれている「東洋」も「日本」も、実際には存在しない理念上の「東洋」であり「日本」だということだ。「茶の本」が、実際の茶道の因習化した世界からみれば誤りとハッタリにしか見えないように、岡倉がいう「東洋」「日本」は、かつて一度も存在しなかったような「東洋」だし「日本」だと言える。岡倉の中での「日本」には、ありとあらゆる可能性と抽象化が、つまり広さと高さが対立する事無く共存していた。このビジョンは、岡倉天心という人物の在り方と一致している。


五浦の旧岡倉邸の庭に立つ、脆くなって倒壊の危険から不様な鉄骨で補強されざるをえなくなった「アジアは一つ」の碑を見るにつけ、ほとんど芸術Google Earthみたいな岡倉は、たぶん現実の日本にはオーバースペックにすぎたのだと思ってしまう。日本に美術の正史などない、とあっさり言い切る前に、最低限読んでおかなけらばならないのが岡倉の仕事で、恥ずかしいことに私はいまさらそんな事をしている。それにしても全集が私の地元の図書館にはないのが困る。都内の図書館をあたるしかないのだろうか。

*1:ネットの時代になって下品な罵詈雑言や誹謗中傷が増えたというのは嘘で、こんなものはいつの時代でもあるのだ