大原美術館で気になった、というかやっぱりそうなんじゃないかと思ったのは宇佐美圭司氏と荒川修作氏の関係の深さだ。こんなことは知ってる人にとっては何を今さら、というような事かもしれないし、また別に二人だけの問題ではなく1960年代という時代によるもので他にもそういう人はそれなりにいたのかもしれない。しかし、僕が知っている範囲ではこの二人の影響関係について語っているものを見たことがない。単なる当て推量でしかないが書いておく。僕は同じ事を以前やや薄く書いているのだけど(参考:id:eyck:20070509)、この時はどちらかといえば宇佐美氏と岡崎乾二郎氏の関わりに重心を置いていた。


大原美術館分館の地下には現代作家の作品がある。その一部として、荒川氏と宇佐美氏の絵画は1点づつ展示してある。荒川氏の「ダイヤグラム・オブ・ミーティング」は1965年に描かれている。横229cm、縦160cmの大きさで画布に油彩とカタログには記載されている。明るいグレーの、均一な地に褐色の線で幾何的な図形が左右対象に近い形で描かれている。向って右には縦長の長方形の上辺が円弧になっていて、下辺は途中でとぎれ下に向って開いている。上部半円上の内部は画面内側半分だけが円グラフのように楔形に分割される。この扇形の向って右側に汚れのようなタッチ、下部には彩度の高い房状のタッチがある。図形中央には立方体を斜上から見下ろしたようなパースペクティブをもった図が描かれる。ほぼ同様の構造をもった図形が画面反対側にも鏡面対称のように置かれるが、上部半円上の内部の扇形の分割のされ方や汚れのタッチ、図形中央の立方体のスタイル、また図形下部の開かれ方などが少しずつ異なる。どちらの図からも矢印がのびる。二つの図に挟まれた中央やや上には精子状の図型とアルファベットでA I Rと描かれ、その下には離れて不定形の模様がある。また画面下辺には再びアルファベットで THE DIAGRAM OF MEETING (2=2.5 3)とある。この作品は1966年に第7回現代日本美術展で大原美術館賞を受けている。


宇佐美氏の「ジョイント」は1968年に描かれている。横270cm、縦185cmの大きさで画布に油彩とカタログには記載されている。明るい水色の地に青で画面上方に向って射影を描く面が描かれ、これが左右対称に近い形で配されて画面内部に箱様の奥行きを作る。その内部に、やはり左右対称に近い形で幾人かの頭部のない人のシルエットが描かれるが、それぞれのシルエットは同じではない。画面向って左端のシルエットは画面中央、向って右手にむかい側面を見せている。反対の画面向って右端のシルエットはやはり画面中央、つまり向って左手をむくが、完全に左向きでなく斜前に歩行するように見える。画面上部やや左手、またそれと対称の右手にはそれぞれ複数の異なる形態を見せるシルエットが重なる。また、各シルエット間は帯で連結され、その内部はグラデーションによって塗られている。この作品は1968年に第8回現代日本美術展で大原美術館賞を受けている。


ペインタリーなブラッシュストロークを排した幾何的図形を横長のキャンバスに、ほぼ左右対称に描きながら細部をすこしずつ変え、相互の関係性を見せるという作品の基本構造はどちらも同じだ。キャンバスサイズや画材・技法もほぼ共通し、御丁寧に荒川氏は第7回、宇佐美氏は第8回の現代日本美術展で大原美術館賞を受賞している(当然偶然ではないこの評価基準も重要な要素だ)。むろんフラットな塗りを持つ反ペインタリー・反絵画的絵画というのは1960年代の日本では彼等二人だけのものではない。ぱっと思い付くだけで菅井汲氏、オノサト・トシノブ氏がおり(どちらも大原美術館にコレクションがある)、また版画では加納光於氏などもダイアグラム的作品を一時期製作している。林道郎氏が指摘するように、「反絵画」を指向する作品が、あくまで絵画として製作されていた、日本という文化圏での絵画の権力性が現れていて興味深いが(例えばアメリカでは絵画というフォーマットはミニマリズムの運動の中で徐々にフレームに解体され蒸発してゆく。コンセプチュアルアートのムーブメントの中であくまで絵画に固執したのも、日本人の河原温であることは、やはり林道郎氏のレクチャー内で示されていた)、しかし荒川氏と宇佐美氏の特徴はそのような状況から浮き上がっている。


荒川氏とそれに続く宇佐美氏は、あくまで「関係性」を主軸に置く。左右に近似しながら、しかし僅かにずれている反絵画的ダイアグラムを配置することで、照応/非-対称関係を図示する絵画を製作する。どこか同時代の構造主義ポスト構造主義との平行関係をかんじさせるような、つまり絵画/美術の外部を意識していたように見える二人の、それぞれの個別の事情のようなものにはここではあまり触れられない。とりあえず既に渡米していた荒川氏が、しかし国内の公募展である現代日本美術展に出品していたことに見られる日本-絵画に対する氏のアンビバレンツな感情は、近年のICCのインタビューで、なぜ指の1本も入らない絵画などという虚構にこの国は高い価値を置いているのか苦しんだ、という発言にも見てとれる。同時代の赤瀬川原平などはとっとと絵画など放擲しているのに対して、渡米してなお「絵画」にこだわっていたのは荒川氏のほうなのだ。そしてそのようなこだわりを見せる荒川氏の反-絵画が、1960年代前半に膨大な制作によって独自に絵画のモダニズム的展開を突き詰めホワイトアウトに近い画面にたどり着いてしまった宇佐美氏の試行錯誤に、大きなインパクトとして現れたことも想像にかたくない。しかし、問題は、このような接近を見せた二人のフーガが、後に解体してゆくその様にある。


荒川氏は、やがてまったく絵画を制作しなくなる。妥当な論理的帰結だが、逆に荒川氏は以前私が書いたように、60年代のコンセプチュアル・アートの脱物質化を反動させインストラクションに基づく美術を実体化させてゆく(参考:id:eyck:20071106及びid:eyck:20071117)。翻って、宇佐美氏は絵画にあっさり反動する。1979年の「100枚のドローイング」からペインタリーなタッチがダイアグラム絵画に侵入しはじめ、それはやがて全面化し、画面はバロック的に大型化・装飾化する。美術作家としては、大きな切断をみせながら“斜め上”に逸脱した荒川氏の前衛性が評価されるが、しかし、「関係性」を主軸にした、絵画からズレつつ絵画を複数化するような、持続的仕事がやや半端な状態で、日本という奇妙な文化圏に宙に浮いたまま放置されたことは間違い無い。ここに私の前述の岡崎乾二郎氏と宇佐美氏の連続性/切断性を導入すると、その様相はやや違った模様になるかもしれない(ことに岡崎氏が執拗に2枚ひと組の対称に見えながら異なる作品を併置していた理由が垣間見える)が、それはここでは置いておく。それにしても、1960-70年代の日本で、現代絵画の評価システムとして、現代日本美術展での大原美術館賞というのは面白い存在だったのではないか(僕は終了真際の現代日本美術展を何回か見ているが、その時は公募展一般が瀕死の状態で、ほとんど力を感じることができなかった。少し前に終了していた安井賞-なんと終盤には村上隆がDOB君とかを出品している-の後を追っているのが明らかだった)。