気持ちを整理するのが難しい。ここ2-3週間、私が立続けに見たのは「現実」で、それが生と死という対称として現れた。けど、この対称性は境界線がとてもあやふやだった(といことはそれは対称ではなかったのか)。「現実」は、もちろん、ただちに多数の、洗練された手続によって生活の中に取り戻されてゆく。そういった生活への「現実」の取り戻し(物語化)がなければ、私(達)は生きてはいけない、というか「生きて行く」というのは、こういった取り戻しを絶え間なく行い続けることなのだろう。まだ言い足りないだろうか?おうおうにして軽蔑的に語られる、このような生活への「現実」の取り戻しは、実際にはおそろしく切実な祈りの一種としてある。「助けてほしい」、この宛先不明の(更に問いただせば出し所も不明な)感情は、人が産まれる時も亡くなる時も等しく発せられるし、また、産まれた後、亡くなった後も様々に形を変えて発せられ続ける。この発声は、気持ちや感情の発露から、即物的かつ様々な技術の積み重ね、社会的な諸手続、そして経済的なレベルまでを貫いていたと思う。


とりあえず生まれた子についてだけ少し書く。といっても私がやったのは諸手続の使い走りだけだったりする。母体は入院前に、産後の手続の準備をほぼ完璧に済ませていた。役所や勤め先に出す書類は、併せて必要な通帳や印鑑と共に一まとまりにされ、産後に提出に赴く私への指示だし用に全ての手順を書き込んだメモまで用意していた。身びいきかもしれないが、鮮やかなものだった。医師に出生証明書を書いてもらい、私は夜9時まで受付けている川口市役所の駅前行政センターまで出かけた。出生届けを出すと、私の本籍が市外なので確認に1日かかるといわれ、少しがっかりした。が、説明は丁寧で、今の役所と言うのは、夜間まで受付けていることも含めてずいぶんサービスが良いのだなと感心した。市からはお祝いとして絵本か鉢植え植物が贈るがどうするかと言われた。母体と相談したいというと、リストと引換券をくれた。後日、私の本籍の確認がとれ、さらに新生児の保険証が発行された後、引き続いて児童手当金の認定、乳幼児医療費受給資格票の発行手続きをすませた。


市からのお祝いは絵本を選んだ。母体が産休・育休をとっている勤め先に出すために新生児を含めた世帯全員の住民票を有料で発行してもらい、母子手帳に出生のサインももらった。この一連の手続きで、事後的に出産にかかった費用のうち35万円は支給される。単純に、この制度で我々も長男も「助けられている」。まめまめしく書類を作った母体の文字には真面目な力が入っていたと思う。


こんな手続の間に感じたことはいくつかあるが、それはさておく。とりあえず私の長男は、一定の条件の中に生まれた。いずれにせよ生まれてきたことを一瞬でも後悔しない思春期を過ごす者などありはしないし、“この親”の元に生まれてしまったことを問いだささずにすむ少年・青年期を過ごす人間も想像できない。今時、家族を持ち子供を授かったことが単純な幸福に直結すると考えるような人はいくらなんでも短絡的だ−実際、今報道されている多くの悲惨な事件とは、まさに家族をもち子供を持ってしまった/生まれてしまったことの不条理が、最悪の形で露呈しているのだから。だが、その上であえて言えば、我々は意思を持ってこの子を産んだ。生きることの厳しさをまるで知らない我々でもないつもりだ。しかし、様々な事実をひとまず置いた上で、やはり、我々は、この世界を、最終的に肯定的に捉えているのだと思う(それは、我々の親への、個別の応答の一つの形でもある)。


私は父と息子という関係は、自分と3年前亡くなった父と自分の関係しか知らない。私はたぶん、父の無意識を見て育った。私の息子はやはり私の無意識を見て育つのだろうか。いずれにせよ、念頭に置くイメージはある。私は自分の父と同じように死にたいし、そのような死に姿をこの子に見てほしい、ということだ。あの時私が見た、やせさらばえた死体の父の顔が私のイメージする自分の死に顔だ。十分高いハードルだと思っている。あえて自分にとっての「父」のイメージに近似のものを探せば、例えば、亡くなった義兄は淡くはあってもそのような「立ち場」を示してくれたことがある。家の屋根が無くなって寒い冬空が自分に迫ってくるような感覚。しかし、これ以上のことを今、私は言えない。ただ、母体とともに退院後一時的に里帰りしている私の長男には、おそらく何らかの形で、義兄の存在が部分的にでも埋め込まれたのではないだろうか。私は、それを、ある種の手応えとともに感じ取っている。Giftだと思う。そのGiftをどう育てるのかは、長男本人を含めた我々にゆだねられている。


そんな、やや感情移入の強すぎる私をおおらかに無視するように、私の長男は1日の大半を寝て過ごし、目覚めては授乳し排便し、放尿し、放屁し、おののいている。そのおののきに理由はないのだろう。私は彼のそのおののきを含めて、肯定の合図を送り続けようと思う。