ブラッシュストロークの現在地点(1)

要はブラッシュストロークからの距離をどう取るのか、どのように扱うのかの問題なのだと、とりあえずは言い切ってしまおう。今の日本の美術状況において、もっとも事態をはっきりさせる切り口は、絵画におけるブラッシュストロークなのだと、これも簡単に言い切ることにする。それが単純にすぎる、あるいはいくらなんでも絵画中心主義的すぎるというなら、誰かが広汎かつ精緻な議論をしてくれればいい。


先のエントリ「アート・インディペンデント・メディアの状況」は椹木野衣(1962-)-村上隆(1962-)以降、具体的には1999年11月20日から2000年1月23日にかけて水戸芸術館において開催された「日本ゼロ年」展後の状況について書いたのだけど、取り上げた作家個々の作品について詳細に書くのは難しい。とりあえずは前エントリを踏まえて、簡単なラフスケッチを描くことにする。「ブラッシュストローク」という言葉は美術の専門的な文脈を含む言葉だが、それを理解できない人はとりあえず平易に「筆跡」とだけ理解すれば良い。紙に絵の具を含んだ筆で線を引くと、輪郭がやや滲んだ、直線でない線が引かれる。これが「ブラッシュストローク」の近似なイメージだ(いうまでもなく、リキテンスタインetc.が想起できる人は問題ない)。


「日本ゼロ年」展におけるブラッシュストロークは、基本的に抑圧されていた。筆跡を残さない村上隆がその中心的存在であり、キッチュなイラストレーション的形象の作成に筆跡をもちいる奈良美智(1959-)は注意深く作家のラインナップから外されていた。村上隆においてアメリカ・マーケットで勝負しうる言語は欧米モダニズムの輸入品たるブラッシュストロークではなく、メイド・イン・ジャパンの工業製品、その漆工芸的に滑らかな表面塗装=スーパー・フラットであって、ブラッシュストロークは村上の関心外だった。この、椹木-村上ラインを代表とする美術のニッポン化に抵抗していたのが、1995年に出版された「モダニズムのハード・コア」の編集委員だった岡崎乾二郎(1955-)なのだが、ブラッシュストロークの抑圧という点では、実は岡崎-村上両名はある一定の共通地盤を形成した。


当人達が意識するとしないとに関わらず、結果的にこの二人の大きなマトになっていたのが、巨大なキャンバスに思いきりブラッシュストロークを配置してゆく中村一美(1956-)だったことは、今から振り返ると明瞭だ。抽象表現主義を70年代に突如受容した日本において、近-現代美術の展開に意識的な言説を語り、はっきりとアメリカ的スケール感で「ペインタリー」な絵画を生産してゆく中村は、80年代後半には国内美術において、メインストリームを走る成功者として認識されていった。中村の絵画はいわば「日本版抽象表現主義」の典型例と言える。ことにステイング(染込み)の技法の大胆な使用は岡崎-村上両名のラインからは隔絶していた。


ブラッシュストロークの抑圧の身ぶりとして、シンプルな「塗装=スーパー・フラット」を使用する村上隆に対し、岡崎乾二郎のアプローチは極めて複雑ではあった。キャンバスを単なる平面とみなさず、彫刻的「土台」を木枠にわざわざ一目瞭然にわかるように付け足す岡崎は、一見絵の具のブラッシュストロークと見えるようなタッチを一度シルクスクリーンの型にして、これをキャンバス上にプリントする、という迂回路を設定した。結果、絵の具は下地を施されない“乾いた”綿布上に、染込まずにレリーフ状に載った形で配置された。いずれにせよ、美術における資本・キッチュ・イメージといった主要な戦線で相反するように見えた岡崎-村上の両名は、唯一ブラッシュストロークの抑圧で共同戦線を張ったと言っていい。


しかし、岡崎乾二郎におけるブラッシュストロークの有り様が、深い屈折を含んでいたことを示したのがカナダ大使館ギャラリーでの「色圧 "color pressure"」と題された72点のドローイングだ。ここでの岡崎の発表が、師である宇佐美圭司(1940-)への潜在的な態度を想起させることは以前エントリしたが(参考:id:eyck:20070509及びid:eyck:20071129)、とりもなおさず岡崎に埋め込まれていた「ブラッシュストローク」的なるもの、ペインタリーな資質にもっとも素早く反応したのが「批評空間」web版に掲載された古谷利裕(1967-)「絵画について/IMAIとOKAZAKI」(参考:http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/furuya/011030.html)だった。また、これに対する浅田彰(1957-)のレスポンス(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/011031.html)も、古谷の視点を強化した。


一時期岡崎の作品に深く影響を受け、ぱくきょんみに「どこかで見た事ある」といわれるような絵画を制作していた古谷は、岡崎に含まれていたブラッシュストローク的なるものを再度抽出していく。しかし、そこではブラッシュストロークは、単なる復活をとげたのではない。古谷においても、ブラッシュストロークはキャンバスに“染込まず”、その絵の具の輪郭はくっきりとしており基底材と分離しているものが主流を占める。余白の地をつぶさず、タッチとの関係において見ようとする姿勢は2006年A-thingsでのモノクロ・ドローイングでも確認された。


もっとも、このような動きは全くの傍流だった。0年代前半は、いわば村上隆周辺の「マンガ・アニメ的リアリズム(大塚英志)」が全面的な勝利を納めていた。実は村上のフォロワー、及び奈良美智とそのフォロワーには、いわゆる「下手ウマ」な筆の粗い使用が溢れかえっていたが、それらは「あえて」の戦略を持つ村上とは違い、単に美術史に無知なだけだったために「ブラッシュストローク」とは呼べない代物だった(村上はまがりなりにも「ブラッシュストローク」の文脈を知っていたから、自らは一切筆跡を残さずあくまで「塗装=スーパー・フラット」にこだわった)。村上から離れたところでアイロニーに満ちたパフォーマティブな展開を見せる会田誠(1965-)は、「ニッポン美術」に見られるありとあらゆる絵画様式=筆跡を圧倒的な技量でコピーしパロディーにしながら、中村一美的ブラッシュストロークには巧妙に近付かなかった。

以下次回。