「アート・インディペンデント・メディアの状況」と「ブラッシュストロークの現在地点」に関しては、貴重なレスポンスをいくつか頂いている。その多くがパーソナルな形で(メール、あとはちょっとmixiのメッセージとか)来ているというのも興味深い(スペルミスの指摘とかだけじゃないです念のため)。私は美術業界内部の事実関係を無視しすぎだろうか。しかし単に作品の形式的サーフェィスから「作品が交わしあっている会話」に耳をすませていると、どうしてもああいった言い方になる。俎上に上げた方はディティールや当時の現場の事実関係との違いにひっかかるかもしれない。だが、そういったものは、誤解を恐れず言えば、そんなに重要ではないはずだ。いろいろなレスポンスを見るにつけ、あのエントリは、私の想定を超えた射程距離を持っているような気がしてきた。


webで、はっきりと応答して下さったのは以下の方。勝手な私の記述に寛容さを示してくださって恐縮です。どちらも興味深いエントリ。


山内崇嗣さん

●上田和彦さん


あと、改めていえば、あのエントリ群はあくまで一般性を持った、美術状況全般に関する内容ではあったのだけど、裏面では「組立」という展覧会への文脈形成でもある。そもそも「展覧会」というのが、批評的なメディアであるということ-つまりそれは、webサイトを作ったりラジオを流したり雑誌を発行するのと同じ行為である、ということを、美術関係者の多くが忘れている。こういう問題提起にどのくらいのひとがピン、ときてくれるのか正直自信がないのだけど、いまのところ「見て欲しい」と思っている人の一定数からは関心を持ってもらえているようだ。


作品自体に関しては、「ブラッシュストローク」の一言に話しを絞ってしまうのは自分でも乱暴だと思うけど、このくらいわかりやすいキーワードを配置しておかないと(それこそ美術関係者ですら)最低限のクリティカル・ポイントを持ってもらえないのではないか、という恐れがある。あんなエントリを書いたら、“自由で多様な視点”を抑圧してしまうのではないか?という心配を、普通作家はするものだし私もする。で、結果的に「黙って良い絵を描き、黙って展示して、黙って見てもらう」、お定まりのパターンが展開するわけだ。だが、それがどのくらい“自由で多様な視点”を開示しえるのか?そういった疑問から開始された「組立」展は、あっさりと「ブラッシュストローク」というキーワードくらいは置いてしまう。これだけ見ろ、ということではない。そのくらいは見て欲しい、というささやかな願いだ。


「アート・インディペンデント・メディアの状況」とかは、正直に言うとかなり反語的な部分もある。率直に言って、今のアーティストは「選ばれる事」を待ちすぎている。権威ある美術館や批評家、コマーシャルギャラリーに「選ばれて」、メディアに「選ばれた」自分の固有名詞を頒布してもらい、結果「自分は選ばれている」というイメージを持ちたいわけだ。ここで致命的なのが、美術館や批評家、ギャラリーに「選ぶ能力」が、一部を除いて多くの場面で欠けている、という事で、選択機能の蒸発したアート業界に、選択されたい人々が列をなして群れている、という、笑うに笑えないサムイ風景が漠々と広がっている。こんなのは美術だけの話しではない。大文字の他者=権威ある絶対的選択者、なんてものはどんな領域でも消えている。だからこそインディペンデント・メディが勃興しているのだ(「大きな物語」は消失した、と繰り返し述べていた東浩紀氏が、今まさにその状況下で最大の「大きな物語」になっているというのは興味深いが)。で、ああは書いたけど、やはり美術は、そういう外部状況から見たら遅れている。あそこで取り上げた固有名詞は例外中の例外だろう。


美術というフィールドにいるのであれば、制作をすることで思考し(何度も言うが思考したことを制作するんではない)、展示することで思考するのが一番面白い、というのが自明なのだと思う。「選ばれた自分」という自意識を満たすために既存のメディアに載りたい、それが一番面白い人は、素直に芸能人を目指すべきなのではないか。テレビは今だ圧倒的に強い。今後も強いだろう。そしてアートの世界にいるかぎり、村上隆ですら滅多にTVモニタには映らない。そして彼はけして大金持ちではない。「成功」してるというイメージを振りまいているアーティストの生活は意外なまでに地味だ(場合によっては苦しい)。要は「豊かさ」を複数のレベルで知っているかどうかの問題なのだと思う。