土曜日には雨の中、松下電工 汐留ミュージアムでの「ルオーとマティス」展にでかけていた。そんなに大規模ではないと思っていたし(規模だけ見れば実際そうだった)、やっぱり今マティス、と言えば川村記念美術館の「マティスとボナール」が目玉だと思っていたのもあり、軽い気持ちだった。ところがこれが刺激的な展覧会だった。マティスに関しては、けして点数は多くはないものの、「線」に注目できる良い機会だった。タブローは少なくて、メモみたいなドローイングがいくつかあったのだけど、この、見逃されそうなドローイングの線が強くて、そこから改めてひろしま美術館の「ラ・フランス」とかを見ると、マティスにおける線の重要性が再認識される。で、こういうマチスの線に注目すると、師のモローの影響というのは、私が考えていたよりずっと大きいのかもしれない、と思った。


モローとマティス、という師弟関係は有名なのだろうけど、これはたいてい、巨匠の教え子から巨匠が産まれた、という「良いエピソード」としか語られない。私はBunkamuraでのモロー展を見て、モローにおける「線」の面白さに気付いた。モローのタブローでは、油彩による象徴主義的な図像の上から、細く白い線が引かれることがある。これは装飾というよりは、主に油彩による色彩/光の表現のレイヤーに、分節的な線のレイヤーを階層を分けて導入することで、絵画における単一主題/単一場面/単一画面という伝統的な枠組みを壊す契機となっている。今回の「ルオーとマティス」展でも、序盤にモローの作品があるが、私は一度一番最後まで順路を追って、それから改めて逆に展示を遡りながら、マティスというのはこのモローの試みを踏まえた上で、それをずっと洗練化/複雑化した人なのかもしれない、と感じた。


つまり、単にマティスの学生時代に有名な師がいた、というだけではなくて、マティスの作品の重要な部分にモローという人は作用しているのではないかと改めて思ったのだ(今度はだれか「マティスとモロー」という展示をしてくれないでしょうか)。モローが「レイヤー分け」で対処していたことを、マティスは画面全体の構築の中で展開していたと見ることは可能なのではないか。モローの「君は絵画を単純化する」という“予言”は、この視点から見ると凄く的確で、それは要するに「レイヤー分け」のような「装置」を導入しなくても、筆による複数の「線」で実現できる、というのがマチスのやった事で、これがつまり「レイヤー装置」抜き=余計なプロセス抜きでできる、というのがモロー先生言う所の「単純化」だと読むことはそんなに荒唐無稽ではないだろう。


こういう展覧会の見方はとっても思考的で、もちろん私は展覧会を今「思考する場」と捉えようとしているのだから、何も文句はない、というか十分以上に面白い展観だったのだけど、でもやっぱり美術展、というのは何より作品の“実存”にどっかんとヤラレる経験をしてしまう所でもある。で、そういう意味ではこの展覧会で一番ヤラレたのはルオーの作品でだ。私がこれだけまとめて意識的にルオーを見るのは、1992年の三越美術館での「ルオー生誕120年記念展」以来になる。この展覧会は個人的にかなり印象的で、お金がなかった学生時代だったにもかかわらずカタログを購入した記憶がある*1。ルオーにおいては、油絵の具というのは、とにかく「積層されるべきもの」としてある。古典的な油絵具の技法において、「塗り重ね」というのは色彩/光のコントロールの為のシステムなわけだけど*2、ルオーはそのシステムが無意味化するまでマチエールを厚くする。


絵の具の鮮やかさは積層することで失われるのだが、しかし色彩、というのは光としてだけ感知されるわけではない。絵画においては光が形成するイメージを絵の具から切り離してみることができない(これを様々なテクニックで切り離し、抽象的なイメージだけを抽出して絵の具を抑圧することこそイメージの制度というものだ)。ルオーは絵画における光を、あくまでものから切り離さずに扱う。これを切れ味のあるものにしているのが「鮮やかな黒い線」というルオー独自のテクニックで、実際ルオーの作品でもっとも鮮やかなのは輪郭線の黒なのだ(ルオーにおいて唯一「黒」だけが物質性から切り離されている)。強い物質性を持った鈍い絵の具が、しかしトータルで「鮮やかな印象」を残すのは、ルオーの卓越したテクニックと冷静な“作品経験の構築”によるもので、巷間よくいわれる「敬虔でヒューマンな魂の画家」みたいなイメージは、ちょっと通俗的にすぎるのではないか*3。もっとも、この物質性に宿る光、という主題が強いキリスト教性を持っていることは確かで(先のティツィアーノによる「ウルビーノのヴィーナス」に関するエントリでも触れたけど)、たぶんこの部分は改めて考えるべきなのだろう。


あと、思い付きだけど、絵の具が重ねられているようには見えないにもかかわらず、相当程度レイヤーがある、という国立西洋美術館での「プロセスとヴァリエーション」展でのマチスにルオーやモローをリンクすると、新たな視点が確保できるのかもしれない、と思った(「ルオーとマティス」展はもう終了)。

*1:いや、確かに購入したのだけど探しても出てこなかった。ショックだ

*2:このレイヤーシステムの隠蔽によって単一主題/単一場面/単一画面という虚構イメージを成り立たせているのを「蓋を明けて見せた」、つまり明示したのがモローとも見える

*3:ささいな事だが、今回の展示会場での、床に照明で十字架を切って見せる演出は蛇足だと思った