美術のさいたま/アニメーションのさいたま(3)

話題となった「らき☆すた」オープニングにおける背景描写に注目してみる。むろん、この映像での「つかみ」は(伊藤剛氏が規定するところの)「キャラ」の動きであることに違いはない。だが、ただそれだけに最適化しているわけではないことは、イントロが終わった後、いわば「本体」の部分の冒頭で「キャラ」が画面内で小さくなり、背景が大きく描写されるところに見てとれる。この背景は、まずは主人公こなたのバックに広い田園(幸手ではないかと言われている)が映り、つづいてかがみが鷲宮神社前を歩く。つかさが東武春日部駅前、みゆきが春日部共栄高校前で踊る。その再現性の高さはやはり驚くべきものだ。ここでこれだけ背景がフレームアップされることがいかに特殊かは、キャラクターだけに見事に特化している「To LOVE る」のオープニング映像と比較すればはっきりする。


らき☆すた」の舞台が埼玉県であることは、あくまで原作における設定であって根拠はない。それは恐らく千葉であっても川崎であっても立川であってもよかっただろう。しかし、アニメ化において非常に力の込められた(はっきり言って異常だ)オープニングで、「キャラ」を押し退けてまで全景化された「さいたま」は既に積極的な意味をもつ。もちろん、この背景としての「さいたま」のウエイトの重要性は本編でも反復され増幅される。古びたペンキの質感まで感じ取れる、東武線駅舎の木造のトラス。春日部駅周辺の商店街の、特徴はないのに一目でそことわかる雑多さ。他、上げていけばきりがないのだが、ひたすらネタのネタ化のサイクルが回転してゆく「らき☆すた」において、この背景のもたらす「空気感」は、奇妙な安心感、あるいは一種のなつかしさとして機能している。この感覚が最も現れているのが、主人公達がコンサートに訪れた大宮駅西口のソニックシティからの帰り道、夜の「さいたま」の風景だ。


混雑するホール内で背のひくい主人公は、普段悪口を言い合う親友に場所をゆずられる。その帰り、楽しんだ様子を見せる親友と歩きながら主人公は、やや感傷的な台詞を言う。そこで映るのが夜の大宮駅西口の交差点だ。この「空気感」には、ネタ性・メタ性がない(付け加えれば、先のエントリで触れた「おおきく振りかぶって」の後期エンディングで、精密な「夜のさいたま」を描いたのが「らき☆すた」初期監督の山本寛であることは、とりあえず注意しておいていいだろう)。「らき☆すた」において消費されていくネタ性・メタ性は、あくまで「手前」で行われる。そして背景となる「さいたま」は、ほとんどのシーンで決してネタとして扱われない。この事は注意を喚起すべきことだ。一般に表象としての「さいたま」とは、あくまでネタとしてしか扱われなかったからだ。「さいたま」のネタ性に関しては改めて触れるが、いくらでもイジるコードに満ちていた筈の「さいたま」が、ネタ.メタ性の極端に高い「らき☆すた」では完璧にベタに描写されていたことは特筆に値する。


結論を言ってしまえば、「らき☆すた」の背景たる「さいたま」は、ネタ・メタの再帰性のサイクルを受け止める基底として機能している。22話、主人公こなたの、死んだ母親のあらわれるシーンでは、夜の花畑が短いカットで繋がれる。ここでの花畑は抽象度の高い映像であって、むしろ「さいたま」性は希薄だ。しかし、その平坦で広い空間は、ここまで丁寧に積み重ねられてきた幸手(主人公の家は幸手に設定されている)の風景と、ごく自然にオーバーレイされる。こうなれば、すべてがネタ・メタのサイクルになっている「らき☆すた」での、背景たる「さいたま」が持つ肥大化した重要性が理解できる。平滑に、どこまでも広がる田園的空間に、無限に埋め込まれ遍在化している、しかし実体としては既に死んでしまった、全てを受け止め見守っている母親の視線。このような、想像(妄想)的にしかありえない、理想としての「母」として「さいたま」はある。


日本のアニメーションにおいて、背景/舞台の重要性はその当初からあっただろうが、「なつかしさ」「郷愁」が背景を構築していくトレンドを作ったのは宮崎駿だろう。ことに「千と千尋の神隠し」以降、土着的日本という表象は、テレビアニメーションにおいても最もポピュラーに利用されるイメージとなった。例としては「かみちゅ!」の尾道、また「電脳コイル」の架空の郊外大黒市があげられる。これらの作品でも背景はかなりのリソースを割かれて描写され、時にその空間構成は作品の中核的な部分にまで関わった。だが、かなり濃厚な「千と千尋」的イメージに満ちた「かみちゅ!」に比べ、昨年放映された「電脳コイル」は、言ってみれば「さいたま化」が進行している。海と山に挟まれた尾道の立体空間ではなく、平坦な盆地が多くを占める大黒市は、ただ一点、クライマックスの舞台となる神社だけが、やや不自然なくらい急な斜面の高台にある。おそらく、この変化は、何かの予感をもたらしている。


現在、アニメーションにあらわれる表象としての基底、物語やキャラや文脈や幻想や暴力や性を受け止める基底は、尾道や東京ではなく、ある種の貧しさ(ポスカラで描かれる平坦な空間)を抱えた「さいたま」に行き場所を見い出そうとしていないか。もちろん、この「さいたま」はリアルな埼玉ではなく、イメージとしての「さいたま的空間」ではあるだろう。いずれにせよ、その理由は、もしかすると、日本という物理的・文化的空間の有り様が、様々なレベルで「さいたま化」しているからではないかというのが、私の(根拠なき、しかもやや性急な)「予感」の中身になる。(続く)