美術のさいたま/アニメーションのさいたま(2)

私が当初言い出そうとしていたのは、ごく単純なことだ。アニメ版「おおきく振りかぶって」の、背景美術として描かれた「さいたま」が、とても魅力的だった、ということだ。しかもその魅力は、テレビアニメの(宮崎アニメ的豊かさとは異なる)貧しさのもつリアリティ/肯定感覚にある。中盤の練習風景で繰り返し描かれる、浦和区木崎の浦和西高校周辺、あるいは後半の舞台となる朝霞中央公園球場の瑞々しさは素晴らしい。この瑞々しさは、もちろん背景画スタッフの力量によるだろう。ことに雨中の試合の続く朝霞球場の描写に力が入っているのは当然だ。しかし、この作品でのもっとも優れた背景画は試合中ではない、2つの箇所であげられる。第8話 『スゴイ投手?』で、練習に向う主人公三橋と栄口が歩く朝の見沼用水路西縁周辺の風景と、第24話 『決着』の最終カット、三橋を載せた車の走る、雨の荒川にかかる橋を遠くから捉えたショットだ。


この2つのショットは、なにもない武蔵野の、広々とした空間を満たす湿気を含んだ空気感の再現に魅力がある。いうまでもなく、「おおきく振りかぶって」はフィクションだ。しかし、キャラクター達の動き回る背景のリアリティは、滅多な実写作品よりも遥かに印象的だ。日本のマンガ・アニメ文化でのキャラの記号性と背景のリアルさの乖離は昔から指摘されているが、ここでの関東平野の再現性の高さは目立つ。先のエントリでも書いたが、「おお振り」のスタッフの仕事は丁寧だがスペシャルなものではない。だとするなら、この目立ち方には、たぶん他の要因がある。おそろしく単純な、しかし無視できない筈の理由を推測するなら、それはアニメの背景が、ポスターカラーのような水溶性の絵の具によって描かれているからではないのか。しかも、深夜アニメのような環境では、宮崎アニメのような「濃厚な」表現はしないしできない。結果的に水分をたっぷり含んだ 薄い塗りが主になる。そのような、物質的基底の条件が、湿気に満たされた見沼や雨の荒川の風景の描写と、見事なマッチングを見せたのだ。


私の言っていることは無茶に見えるだろうか。すくなくとも突拍子もなく見えるだろうが、しかしきちんと繋がっている。この論理のつながりは意外な、しかし恐らくあたっている結論に結びつく。現在の、一定の洗練を経ながらも、やはり貧しい環境にあるテレビアニメーションの背景(舞台)の表象は、じつは「さいたま」の表現に適合しているのだ。ポスカラによるうす塗りという技法が「さいたま」の地理的風土にフィットしているだけではない。「さいたま」の何もない空間はそれだけで「なるべく何も描きたくない」テレビアニメーションの背景として都合がいいし、さらに80年代以降の「郊外」という文脈(三浦展-宮台真司)に直結する。この連結-貧しいアニメの背景(ここでの「背景」はかなり広い意味を持ちはじめるが)と「郊外」の連結は、問題を一気に大きくしてゆく。そして、そのことを象徴しているのが、「らき☆すた」の背景なのだと思う。


らき☆すた」というアニメーションは、「おおきく振りかぶって」と異なり(対極的だ)、見事なまでにアニメ言説における文脈に適合している。ネット上での言及数はほとんどフォロー不可能なくらいのボリュームだし、批評的にも黒瀬陽平氏によるtxtが流通している(「Review House」創刊号)。その徹底したメタ・メタアニメ的内容は、構成、キャラクター、シナリオ、音楽、動画といったあらゆる面で展開されており、いくらでも言及可能だろう。しかし、私が注目したのは、そういったメタ・ネタ的な部分ではない。それらの基底材となる背景だ。高校生の女の子4人による日常(あるいはそれと同等の比重でのおたく的)「あるあるネタ」を細かく繋いでいきながら、いつしかそのネタが反転して日常を覆い尽くしてしまいつつ、別フレーム(らっきー・ちゃんねる)においてメタ・ネタワールドの破れ目を見せて行くという、アクロバティックな構造をもった「らき☆すた」は、確かに2007年のアニメの批評的極点を示した作品だろう。しかし、このアニメは、その背景-舞台の表象においてのみ、その内容からは異質と言えるくらいのベタさを見せる。このベタさとは、すなわち忠実に再現された埼玉県春日部市幸手鷲宮といった「さいたま」的空間のもたらす母性的感覚のことだ。


らき☆すた」において、登場人物は「萌え要素」の集合体でありバリエーションになる。この記号的キャラ達の交わす会話はほとんど全てが「あるある」と全員で合意できる「ネタ」であって、障壁が生まれない。膨大なおたく的ネタや日常ネタは「即」理解され「即」リアクションされ、まったく距離がない。全てがネタでありメタである本編の後に、そのような仮構的メタ・ネタワールド自体をネタにし、その破れ目の拡大と自壊を描くことで、メタ・ネタ自体がネタにされ、これらをまなざす視点の自意識が完璧に保護される。こういった無限大の自意識の保護(メタ・ネタのメタ・ネタ化)は、根源に一種の怯えがなければ要請されないが、この怯えは、実は果てしないメタ・ネタ化では解消されない。どこかでこの再帰性をとめるポイントが要請される。そして、「らき☆すた」では、その役割はキャラクターやネタの背景、すなわち「さいたま」に仮託されている。(続く)