・「組立」対話企画があった21日は、重要な出会いが幾人もの人たちとあって、それを消化するのに時間がかかっている。もちろん急ぐ必要はなくて、個別の出会いを、ゆっくりと考えていればいいのだけど、今書いておきたいものもある。詩人の佐藤雄一さんのことだ。


・佐藤さんは昨年現代詩手帖賞を受賞された方で、お名前はユリイカとか(はてなダイアリーとか)で拝見していた。だけど、私が本当に瞠目したのは佐藤さんが広田修さん達と作っている詩の同人誌「kader0d」を読んだ時で、だからそれは最近の事になる。特に隠す必要はないと思うので書いてしまうけど、この同人誌の存在を教えて下さったのは浅田彰さんで、メールに「面白そうなのだけど手に入れるのが難しく、第二号は予約した」とあり、私も興味をひかれて予約したのだ。


・送られてきた同人誌は小ぶりではあっても充実したページ数のもので、ことに目を引いたのは表紙以外には一切グラフィックがない、ほぼ完全な文字オンリーの造作だった。しかも見事に1色刷り。同人誌とはいえ今時珍しいくらいのミニマルさなのだけど、はっとするような清潔感をもったオブジェクトで、組版にも神経が行き届き、どことなくノーブルな佇まいがあり全然貧乏臭くない。詩の同人誌とはいえ様々なジャンルの論文やエッセイが掲載されていて、現代詩に特別な興味のない人であっても十分読み応えがある。意外な-つまり、普段自分が興味をもっていないようなモチーフのtxtも面白く読めるのは執筆陣の力量だろう。例えば田代深子さんの「幽霊の居所II; そこにあったはずの 後藤明生『挟み撃ち』と松原団地をめぐる」とかは、ふと松原団地、という草加団地の風景が喚起されたついでに読み始めたら一気に最後まで読めてしまって、驚いた。


・そんな中でも佐藤さんの書かれたtxtは目立つ。詩が1編掲載されているが、他にも高浜虚子小論、ペドロ・コスタ論などがある。ことにペドロ・コスタのテーブルを巡る論考は明らかに様々な美術史をそのバックグラウンドに想起させるもので(もちろんそれはペドロ・コスタが意図的なのだろうと佐藤さんがおっしゃっていたけど)、最終部分などは鮮やかすぎて「出来過ぎではないか」と思ったくらいだ(ご本人によれば、あの最後の記述にはややエラーがあるとのことだったけど、あれくらい面白く書けてペドロ・コスタへの誘惑として成功しているのなら、ぜんぜんいいのではないかと思った)。


・このペドロ・コスタ論だけでも紹介したくなるものだけど、もっと直接的に「美術に興味があるならこの同人誌は絶対読んだほうがいい」と言いたくなったのがドクメンタのレポートだ。佐藤さんがミュンスターやイタリアのアートイベントも含めて現地を2週間(!)で回ってきた経験に基づくtxtなのだけど、これが上記の「鮮やか」なコスタ論より遥かに重要だと思えるのは、それが極めて「普通」だからだ。


・何が「普通」なのかといえば、それは

  • 簡易なドクメンタの歴史やバックグラウンドの説明からはじまって、
  • そのような中での今回のプランの位置づけが書かれ、
  • そこで示されたモダニズム回顧やそれへの批判・反批判といった理論的バックボーンを、
  • 実際の展示作品の紹介に絡めつつフリードやクラウスの議論を引いて平易に解説し、
  • さらにトリシャ・ブラウンのダンス、田中敦子の作品といった作品の紹介を経て、
  • 展示の形式(第1回ドクメンタの再現だそう)からコンセプトまで含めて問題点の指摘までざっくりバランスよく読ませてしまう、

という意味で「普通」なのであって、要するにそこには目も覚めるような「鮮やか」な切り口とかはないのだけど、ここまできちんと理論的背景を押えた海外アートイベントの紹介は、日本中のどのカルチャー・美術ジャーナリズムにも見受けられなかったはずで、徹底して凡庸で明晰な「単なるドクメンタ・レポ」が完遂されているのを見て、私は正直感動してしまったのだった。


ドクメンタをはじめとする海外アートイベントが「凡庸」なのは今や当たり前の話であり、そんな中でも、というかそういう状況だからこそ改めてモダニズムが回顧されるのは、良きにつけ悪しきにつけごく自然な成り行きというものではないだろうか。そういうポイントをこれだけ簡潔によみやすくまとめてくれる人が、今アートのフィールドにほとんど見つけられない。そして、こういう仕事が現代美術よりさらにマーケットが小さいであろう現代詩の同人誌によって遂行されてしまったわけだ。これにショックを受ける、どころかおそらくその存在もしらない人が大半なのではないか?興味がある方は慌てたほうがいいと思う。多分「kader0d」2号は残部僅少だと思う(もう無いのかも)。


・「kader0d」が素晴らしいのは、こういったtxtを読んでいるうちにごく自然に詩作品にも目が行く事で、例えば佐藤さんの詩は、「Review House」で星野太氏が指摘するように、詩の歴史的備蓄だけではない、あらゆるフィールドがイマジネイティブに喚起される(佐藤さんの詩において、「イメージ」は重要なポイントだと思う。それは単なるビジュアルではなくて、例えば「盗作」という言葉には具体的な作品とかとは違った、抽象的なイメージがある。そういうイメージへのリンクが散乱している)。「kader0d」は詩、という現在孤立しかねない言葉の世界のI/Oポートであり、私たちを詩の世界に寄港させるとともに、詩人達を外洋に出航させる重要な入り江になっているのではないか。


・実際、この驚くほど読み易いドクメンタレポは、美術に接点がなかった詩人への親切さから書かれたものだろう。同時に、こういう他人への視線がハイレベルに織り込まれた(なにしろそれは簡易で平易なのに低レベルではまったくないのだ)文章こそ、私のような人間には必要なものだった。


・もし、今美術、という分野に欠けている言葉を欲するならば、「kader0d」執筆陣や佐藤雄一という詩人にこそその穴を埋めてもらうべきなのではないか。もっと有り体に言ってしまえば、アート+カルチャーのメディアを持っている人は、まずは「kader0d」+佐藤雄一という名前を記憶し、彼らに記事をたくさん書いてもらってはくれまいか。