Bunkamuraで「青春のロシア・アヴァンギャルド」展。充実しているとは言いがたいが、そのことでかえってロシア構成主義の周辺、というかその裾野の広がりのようなものが理解できる展覧会になっている。十分な完成度に達していない作品、夾雑物が多く混乱している作品、技術的に不十分な作品、影響を受けた先行する諸作品に対する理解の浅い作品を見る事で、ロシア・アバンギャルドという特殊な美術運動の展開してゆく様子が妙に生々しく感じられるのだ。そこには抜きがたい土着・伝統に対する固着があり、かと思えば、パリなどの「先進的」美術の最も先鋭的な部分が輸入されもし、さらに極端な展開も生む。その過程で様々な誤読があり、その誤読が生産的にも働く。革命と一体となった美術は驚くべき組織化で急速な展開をするが、まさにそのことによって反動にみまわれる。


会場で最初に展示されているカンディンスキーの「海景」という小品は、まだ印象派の影響下にありカンディンスキー独自の抽象的様態をみせていないが、そのことでこの画家の鋭敏な神経が新鮮に見てとれる。タッチが点描的に各個に分離し、間に隙間を見せながら「塗られる」というより「置かれている」のだけれども、特徴的なのは、このようにモザイク壁画のように「置かれた」絵の具を、筆の尻の尖った部分でひっかいているところだ。くっきりと周囲から段差をもって置かれたタッチの中央を水平に削り、線状にキャンバスを露出させたところに、この画家の絵画の物質的基盤への興味を感じ取ることができる。一度乗った絵の具が削られてフレッシュにキャンバスが垣間見える、その積み重ね/削り出しの形成する像への驚きと快感でこの絵は構築されている。


シャガールは2002年の東京都立美術館で見た展覧会を思い出すけど、今回のような展示で見ると、あの奇妙な絵画空間は、ユダヤ系という出自をもった画家から見た風土のイメージが、西欧的な洗練された絵画形式を受け入れた時に起きた混乱を、最も上手く溶融させ折衷させた上で独自の形式にまで高めた、希有な例なのだと再確認できる。「女の肖像」は描写的な技法にのっとりながら、色彩を犠牲にすることなくモディリアニ的な色彩の輝きを実現している。ここからロシア革命期の二つの流れ、伝統的なプリミティブ様式の再検討とキュビズムといった西方の最も過激な形式的実験の交配を、短期間で煮込んでしまったのがシャガールなわけだ(その“火加減”の特殊さがあの空間を実現している)。


事実上、そこではキュビズムの論理はほとんど捨てられ、そのかわりにキュビズムが排除した色彩のイメージ上での展開が彼の関心事になっていく。こういった「割切」に基づいた操作ができず他のロシアの画家は苦心惨憺している。シャガールを支えていたのは油絵の具に対する並外れた技量にあると思う。もうちょっと有り体に言えば、シャガールは周囲の人々よりダントツで絵の具の扱いが上手かったわけだ。けしてキュビズムの理論に拘泥せず、自らのイメージにあくまで従順に行くシャガールは、「ヴァイオリン弾き」では既にロシア構成主義の「苦闘」から孤立している(こういうことが、レントゥーロフのような「3流画家」と並ぶ事ではっきりする)。


この展覧会で多少なりとも系統だって見ることができるのは(ルソー的なナイーブ画家ピロスマニを除けば)マレービチだろう。「収穫」からスプレマティズム絵画に至る作品を見ると、「絶対主義」なるものが単なる形式的要請から来たのではなく、ごく内的でスピリチュアルなビジョンを包括したものなのが理解できる。最高に面白いのが「刈り入れ人」と題された1912-13年制作の、ほぼ正方形のキャンバスに描かれた油彩の作品で、画面を放射状に分割し各面を円錐状に明暗でモデリングした要素の集合と分離の中に、刈り入れをする農民が埋め込まれている。絵画の形式的展開と、土着的プリミティブという一致しないビジョンを1枚の絵画にしなければならないというアポリアが、この作品を爆発的に破綻させ異常なテンションを立ち上げている。


マレービチは「色彩」を光、しかもいわば内的なる光というどこか神秘主義的な何かに変換することで、絶対主義=スプレマティズムに全てを揚棄することになる。こういった苦闘は、マレービチより遥かに絵の具の扱いに達者なシャガールにはありえない。マレービチは、どこまでも自らの寄って立つ地面と、抽象的な絵画形式という天上的イメージのありえない合一に妥協しない。この、不可能に決まっている道程は、「刈り入れ人、1909年のモティーフ」や「農夫、スーパーナチュラリズム」といった過渡的な作品に見てとれるが(スーパーナチュラリズムって、ほとんど新新興宗教とか最近のスピリチュアルブームとかでも追いつかない“波動”を感じる)、こういった、いわば「間違っている」作品の頂点が1912-13年の「刈り入れ人」だと思う。今回出品されているスプレマティズムの作品は、やや図式的で精度が低いからか、この作品の持っているエネルギーは、会場で圧倒的な存在感を示している。これを見るだけでもBunkamuraに行く価値がある。


ピロスマニというグルジアの市井の絵描きの作品の持つ力は、その黒と白の大胆な(要するにナイーブな)使い方にあるだろう。ことにシャガールの色彩を見た後での実もふたもない「白」と「黒」のコントラストを見せられると、やや目のチューニングに時間がかかる。しかし、この画家が文脈としてナイーブだったとしても、絵描きという技術者であったことはすぐに理解できる(実際、会場最後の1920年代以降の画家達の、おそらくはそれなりに教育を受けたらしい作品の酷さからみれば、ピロスマニの画家としての力量は数段上だ)。ピロスマニには、絵の具がしかしイメージになる、という絵画の根源的な快楽に対する途切れない感受性がある。この人の画面の持つ抵抗感は、そういった「絵」に対する喜びが、丁寧な積層となって表れているのだろう。他には序盤のナターリヤ・ゴンチャローヴァ「あんずの収穫」、ダヴィート・シュテレンベルグ「公園にて」が印象的だった。また、会場で冒頭だけわずかにプロジェクター上映されていた映画「アリエータ」は、その断片だけで十分面白い。これは全編上映してほしかった(せっかくル・シネマがあるのだから、別料金でフィルム上映してくれれば最高だった)。


言っておきたいことがある。今のロシア政府のグルジアへの軍事侵略は最悪だ。南オセチアでのグルジア政府の弾圧があったのなら、それは問題に決まっているが、南オセチアはあくまでグルジア領である上に、そこからグルジア軍が撤退すると言っているにもかかわらず侵攻し続けるのは単にロシアの国家エゴでしかない(ましてや南オセチアを焚き付けていたのは誰なのか)。昨日の段階では停戦のきざしがあるというニュースがあったから、私は個人的にこういった「戦争の背後」にいる自分へのメモとして、明らかにエントリとしては拙速な大西巨人のテレビ番組に対する文章をアップしたが(本来なら「神聖喜劇」を読んでから書くべき内容だったが、それでは間に合わないと感じた)、最低限の建前すら掲げず、筋も道理も無視しているロシア軍の行動が止まらないと聞いて、メモとかなんとか言っていないで、はっきり「最悪だ」と言いたくなった。二律背反的な課題を、徹底して内的論理に基づいて追求したマレービチをロシア政府の人間は見たことがないのだろうか。彼の作品をまともに受け止めれば、どんな政治状況があろうとこんな怠惰で愚劣な「解決」などしようが無い筈だ。以前にも書いたことだが、重ねて言えば、美術は、いかに抽象的であろうと、というかその抽象性の極点において世界と接続している。マレービチを世界と無関係な形式的遊びと誤解したソビエトが、以後どうなったか。それを知っているのなら、より一層論理的怠惰を糊塗する暴力はグロテスクだ。