「対決−巨匠たちの日本美術」全試合ジャッジ

●運慶×快慶
出品作はどちらも地蔵像1体づつ。運慶は「地蔵菩薩坐像」(鎌倉時代・12世紀後半 京都・六波羅蜜寺蔵)、快慶は「地蔵菩薩立像」(鎌倉時代・13世紀 奈良・東大寺蔵)。どちらも重文。

これだけ見るといかにもフェアな試合設定に見えるが、実質的には快慶に有利だ。中国・朝鮮半島からの影響を和様化し、丸く滑らかな仏像を完成させた定朝のフォロワー達によるマンネリ化を打破した運慶の、その真骨頂は実はまっとうな仏像ではないところで発揮されている。東大寺金剛力士像、興福寺の肖像彫刻/無著・世親像こそが彼のベストピースと思える。更に今回の出品作は100%運慶の手になるものか、留保がいる。逆に快慶は極めて工芸性の高い、整った仏像が本領で、確かにこちらもベストピースが来ていないことは確かだが、全体に運慶アウェー状態と言っていい。

で、実作を見た結果だけど、やはり快慶の方が完成度が高い。緻密ながらメリハリの効いた細部が全体のプロポーションを壊さず調和しているところは流石と言っていい。対して、運慶の方はいかにも無愛想でざっくりした仕上がりで、見る人によっては大味と見えるだろう。

にもかかわらず、私は運慶が良いと思う。クラフト的な精度の高さをもって日本美術の判断基準とすることほど退屈な話もない。鎌倉彫刻の隆盛とは、まさにそのような退屈を破壊したところに源泉があるのであって、だからこそ運慶は快慶よりも数段貴重な存在なのだ。実際、今回の運慶「地蔵菩薩坐像」は、プロポーションのダイナミックさは確かに運慶的なパワーがあるし、その構造と表面が一体化した造形はまっすぐで明快だ。快慶は細部の装飾がエフェクティブで本体の構造から離れている。そこが快慶らしさなのだから評価しない、というのは単なる私の「運慶好み」でしかない、と批判されるだろうが、「やっぱりキレイで整ってて見事な技を見せてくれるよね」という事で快慶を取るような「正しさ」は私は持ち合わせない。ということで、いわばこのエントリの方向性を宣言する意味で運慶の勝ち。


雪舟×雪村
さすが東博雪舟を惜しげも無くこういうネタ臭い企画に使えるのはずるい(他の美術館の企画だったら、絶対東博は貸さないだろう)。今回の個人的な収穫としては、雪舟の面白さが初めて腑に落ちるように理解できたことだ。この遠因は去年の京都での狩野永徳展にあるだろう(参考:id:eyck:20071031)。

永徳の、個々のタッチが基底材(紙)に染み込まず、きりっとコントラストを持って各細部が明確な独立性を持ちながら、古典的なコード(山水画などの「お約束」)を自在に操って、それらを高い緊張感を持ったネットワークとして組織する、その基本は、雪舟にあったのかと思えた。雪舟も、済みが紙に過剰に染み込まず、一つ一つのストロークの自立性が高い。それを中国美術のコードで裏支えしているのだ。雪舟は永徳に比べてやはりコードが比較的強く、いわば画面の自由度がやや低いとは思えるが、それにしたって明快さと軽快さは確かにある。慧可断臂図(愛知・齊年寺蔵)、秋冬山水図(東京国立博物館蔵)を見ると良くわかる。四季花鳥図屏風(京都国立博物館蔵)などは、意外なまでに雪舟の良い意味での「柔らかさ」も感じられて意外だった。私は2002年の「没後五〇〇年特別展 雪舟」を東博で見て、雪舟をけして心底素晴らしいとは思わなかったのだけど、不明だった。すいません雪舟

対して雪村は、まったく雪舟の対局にある。あきらかなぼかし・染み込みの多用で「ムード」を演出し、無意味な細部の書き込みで「技術」を見せて感心を誘う。趣味的にすぎる。雪舟の圧勝。


●永徳×等伯
永徳は檜図屏風(東京国立博物館蔵)、花鳥図襖(京都・聚光院蔵)を核にして、松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風(個人蔵)、洛外名所遊楽図屏風(個人蔵)。堂々たる布陣で、これまたさすが東博だ。それに比べ、等伯の松林図屏風を会期途中で下げてしまったのはなぜなのか。これを欠いた等伯の戦力はいかにも弱い。萩芒図屏風(京都・相国寺蔵)、四季柳図屏風(個人蔵)で永徳の檜図屏風に対抗しろ、というのが無理だろう。将棋でいえば飛車角落ちだ。会期前半でいかなかった私が悪いのか。

私はけして檜図屏風を趣味として好きなわけではないが、それが日本美術史の流れの中でドはずれた存在感を持っていることは間違いない。等伯でもっとも素晴らしい作品といえば、松林図屏風を除けば智積院が持つ障壁画だと思うけど、これは文句なしで門外不出だろう(それに比べ、さんざん眼福を味わっておいて言うべきことではないものの、永徳の聚光院の襖絵はややカジュアルに展覧会に出し過ぎではないかとすら思う)(現場はもうコピーなのだろうか?)。萩芒図屏風に智積院障壁画の面影を見る、というのも寂しいはなしだ。会期後半は対決の要項を満たしていない。等伯かわいそう。永徳の勝ち。


●光悦×長次郎
すいません。窯物はわかりません。以下はまったく趣味的な記述になります。が、本来窯物、というのは全面的に趣味で選んでいいのではないでしょうか。いや、付属する文脈を知らなければダメだ、と言う人は多いでしょうが、私はそういう立場を取りません(あくまで個別の作品を独立に判断すべきだと思う)。むしろ、こういうもの(器)の判断とは、まず手に取って掌で触り、口を付けてその官能性で見極めたい。重文相手にメチャクチャ言っているのは分かるけれども、もし「対決」という言葉をベタに受け取るなら、窯物に関してはここは譲れないポイントであって、それに比べれば、由来や文脈を知らない事など些事だとすら思う。

ではそういった要項を欠いた上で、何に判断基準を求めるのか、と言えば、「買うならどっち」というところでしょう。これまた十分メチャクチャな話ですが、知らない文脈や、想像しがたい触覚的官能性よりは、ずっとシリアスな判断が下せると思います。もし、万が一、自分が十分な権力と財力を持ったとして(この段階で妄想臭いですが)、何か一つ、ここに並んだ器から所有出来る、となった時、どれを選ぶのか。鑑賞する、というよりは「使う」という観点で。光悦の赤楽茶碗 銘加賀光悦は、すっきりとしていて飽きがない感じがする。黒楽茶碗 銘時雨はやや使うには「重い」感じがある。長次郎の赤楽茶碗 銘無一物は、少し派手でビジュアル優先な感触。黒楽茶碗 銘大黒は、光悦の黒に比べるともう少し手が出し易い感覚があります。

全体では光悦の赤楽茶碗に「持ちたい」と思わせる、ビジュアル外的な魅力があると思えました。光悦の勝ち。


宗達×光琳
この部分に関しては、2006年の出光美術館での風神雷神図屏風展(id:eyck:20061023)が思い出される。宗達風神雷神図をコピーした光琳の作と、さらにそれを模倣した酒井抱一の作品を並べたという凄い展覧会だった。この時は、先人の作品を汚損する可能性もあった上で徹底的な「コピー」を完遂した光琳が印象的だった。

今回圧巻だったのは鶴下絵三十六歌仙和歌巻(宗達画・光悦書)で、なんといっても宗達の、圧倒的な能力の高さに打ちのめされた。凄すぎる。絵を描く人間としては心底ショックを受ける。宗達がここでやっているのは、「白を読む」ということで、こういう事は単なる上手いだけの人には出来ない。絵を描く人間なら分かると思うのだが、ここに描かれた鶴のかたちを規定しているのは、鶴の「内側」ではない。紙の余白の側からあの形態が決められているのだ。漱石が「夢十夜」で、運慶が木から像を削り出しているのを見て、よくああやって見事に木から像を作れるものだ、と感心すると、若い男が「あれは作っているんじゃなくて、あのとおりの像が樹に埋まっているのだ」と答える。ここでは、いわば像は削りとられる木、像の外側に規定されている。宗達は、白い紙の上に鶴を描くのではない。この、継がれた横にどこまでも長い紙の白を読み取り、その白から規定された鶴を掘り出している。要は絵描きが「造らない」というのは、時代精神と完璧に交差できる魂にしかできないのだと思う。

展覧会としては、ここが最も充実している。とにかく宗達の技術的な多様さはめまいがする。狗子図のたらしこみによる描画は面白いし、かと思えば松の幹のグロテスクなフォルムも印象的だ。光琳は、その点、徹底的に謙虚だ。自分が宗達にかなわないこと=いわば自分が「造る人」であることも知っているし、他の誰よりも宗達を尊敬している、自分が最大の宗達の理解者だ、という所に誇りを持っている。この勝負は、他人に決着をつけることが許されていない。光琳が、自分自身から、宗達に頭を垂れているのだ。宗達の勝ち。


●仁清×乾山
これまたジャッジしがたい。要するに分からないのだ。いやそりゃ尾形乾山の色絵紅葉図透彫反鉢は見事だと思いますが、欲しいか、と言われても(誰も言いませんねすいません)判断できない。サントリー美術館蔵の仁清の色絵鶴香合はかわいらしく、これは魅力的だった。あれこれ言っても仕方がない。正直になろう。

分かりませんでした。


円空×木喰
私はまったくこの二人の仏像を良いと思わない。江戸時代という、緊張感を欠いた時代の最も象徴的な例だとしか思えない。関連する展覧会としては同じ東博の「仏像 一木にこめられた祈り」展があったが(参考:id:eyck:20061127)、ここでも構成としてはメインだったのかもしれない円空と木喰に興味がなかった。くりかえせば円空も木喰も、中世期の「大きな祈り」が失墜した後の、平坦な時代での「小さな祈り」の散乱としてポストモダン的な弛緩を生きているのだろうが、ここから読み取れるのは作品の背後にある社会とか円空・木喰といった個人の有り様とか、そういうもので作品単独で見るものがない。あえて言うなら、木という素材の有り様に沿って、荒い彫りの断面を露骨に見せる円空の方がまだしも見ていられるだろうか。イヤイヤながら円空の勝ち。


●大雅×蕪村
大雅の楼閣山水図屏風(東京国立博物館蔵)の金地と、蕪村の山水図屏風(MIHO MUSEUM)の銀地があざとく対比させられているが、企画意図としてはジャストなハマリ具合だろう。大雅・十便帖(川端康成記念会蔵)/蕪村・十宜帖(同)ではわかりにくいが、トータルで見ると大雅のマニエリスティックな側面が目立つ。楼閣山水図屏風であれば、派手な金地の上に細々しく岩や植物を描き、中央の楼閣中に赤いポイントを作るなど、ちょっと絵的には作り方が単純すぎてつまらない。蕪村の山水図屏風は、文人画には苦手意識がある私としてはほとんど初めて「良い絵だな」と思わせられたもので、これを持っているMIHO MUSEUM、という所は、なんというか作品の選択眼がしっかりしているのだなと思える(いやまぁI.M.ペイに美術館プランを委託できる資金力が凄いのだろうけど、それにしたってこの宗教団体はこと美術に関しては一定の見識があるのではないか)。


蕪村が「絵描き」として力があるのは、例えば鳶鴉図(京都・北村美術館蔵)の描画を見ると一目瞭然だ。ここでは筆の動きがダイナミックで、その運動感覚が直接絵画の骨格を規定しており、夾雑物がない。文句なしの傑作だ。蕪村の勝ち。


若冲×蕭白
若冲は相変わらず打率が低い。以前も書いたことがあるが、技術的な多彩さが個別の作品のテンションをやや低めていて、一瞬目を引くが内実が伴わないものが多い。旭日鳳凰図(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)などは、細密な描きがどこか単調さを生み、テクニックに絵が埋没していて、描画密度に反比例した空虚さを抱えている。その点、仙人掌群鶏図襖(大阪・西福寺蔵)は若冲の気迫が空回りせず、金刀比羅宮奥の院のふすま絵以来の豊かさを確認できた。

蕭白はやっぱり下手物だな、とは思う。群仙図屏風(文化庁蔵)とか、その色彩の気持ち悪さに眼がちかちかして頭痛を覚える。あの細部の描き込みに、どうしても抜きがたいコンプレックスというか、作品それ自体に対してまっすぐでない、観客の評判を気にしたインパクト勝負のいやらしさを感じてしまう。そんな中で、たぶん蕭白のもっとも「まっすぐ」な表現が見られるのは鷹図(兵庫・香雪美術館蔵)ではないか。ここには過剰なデフォルメもなければ構成も堅実で、絵それ自体への率直な姿勢が見て取れる。しらなければ蕭白の作とは思えないくらいだ。らしくない、という意味では蕭白ファンからは退屈に見られるのだろうけど、こういった実直な力が確かに蕭白にあったのであれば、それは普通に評価すべきだろう。

勝負としては、事実上、今回出品作の中で双方の最高のものと思える若冲・仙人掌群鶏図襖と、蕭白・鷹図のどちらを取るか、という話になると思う。やや迷うが、絵としての魅力なら鷹図が良いと思う。蕭白の勝ち。


●応挙×芦雪
これまた過去書いた話だけど、どうしても私は応挙を面白いと思えない。唯一最高の経験だったのは金刀比羅宮の表書院の応挙で(参考:id:eyck:20071228)、ここの瀑布古松図は素晴らしかった。だが、今回の出品作にはその時のような強い感覚は持てなかった。あれはやはり、インスタレーション的な「場」の総合作品だったのだろうか?かろうじて言えば保津川図屏風(株式会社 千總蔵)の細部に瀑布古松図の流水表現の一端が見えたが、猛虎図屏風であれば、やはり金刀比羅宮の遊虎図の方がずっと良かった。

芦雪は、言ってみれば応挙に比べれば「下手物」に近いとおもうのだけど、虎図襖(無量寺・串本応挙芦雪館蔵)の単純ではあってもはっきりと強い力はさすがに印象的だ。もちろんこの人にも「アッと大声出して人を驚かす」みたいな、ちょっと安易なところはある。例えば厳島神社でも見たことがある山姥図額なんかはそんなノリだ。それでも、この人は蕭白よりはずーっと「まっすぐ」だと思う。虎図襖を見ていて思うのは、芦雪の、全身を使って映画的な巨大なスクリーンにどん、とイメージを作り出してしまう快楽の有り様で、この人はこういった描き=イメージの創造に喜々としてとりくんでいる。その喜びの有り様がまっすぐなんだとおもう(そこが単純と言ってしまえばそれまでだけど)。聞いた話だと、無量寺の芦雪は、場所に応じて相当いい加減な作品も描いているらしいのだけど、今回の出品作は良いのではないか。芦雪の勝ち。


歌麿×写楽
この二人の共通項はバストアップの人物像をぱーん、と見せた強さにあって、そういうベースを作りつつ差異を見せる、というこの試合設定は良いと思う。写楽は1995年の「大写楽展」(東武美術館)でまとめて見ているのだけど、刷りの状態や保存状態に(当たり前だけど)幅があって、その点今回の写楽は粒がそろっている。逆に歌麿はまとまって見た経験がなく、落ち着いてしっかり見たのは今回が初めてではないか。思いのほか線が細く、色彩も品があって、コントラストの強さだけなら写楽が上だ。最も異なるのはバストアップの「程度」で、やはり写楽の大首は一歩踏み込んでいてそれだけ絵が前に出る。歌麿はすこしだけカメラが引いていて、そこのフレームに対する主題のありようが繊細なのだ。

おそらくこういった浮世絵を判断するのに適正な基準だと思うのだが、要はどっちに「萌える」かが勝負所ではないだろうか。この「萌え」は、けして美人画ならいい、とか言う単純な話ではなく、例えば京都アニメーションの「動き」に萌えることもあれば、出崎統の止め絵に萌えるとか、そういう抽象性を持った、しかしその中核に確かに性的なエモーションを孕んだ感覚だと思う。こうなってくると極めてパーソナルな話になるが、私としては歌麿の、ぎりぎりまで攻めながら写楽ほど踏み込まない「寸止め」的なあり方に萌える。「ポッピンを吹く娘」の官能性などはベタにダイレクトだが、それは美人画だから、性的な含みを読めるからだけではなく-もちろんそれも要素の一つだけどーこの作品の線のグレーの「弱さ」だとか色彩の微妙なあせ方とか、そういう所に萌えるのだ。写楽はちょっと、エフェクティブにすぎる(浮世絵なんだからそこがいいんじゃないか、という人もいるだろうし、それは確かに言えるけど)。とりあえず歌麿の勝ち。


●鉄斎×大観
円空×木喰と同じくらい個人的にはどーでもいい対決。正直大観という人は、初期の一時期を除いて見るに値しないと思う。ことに岡倉天心が死んでからの弛緩ぶりは最悪で、つくづく岡倉のような抑圧は必要だったのだなと思う。戦中・戦後の大観とか見ていられない。今回の出品作の雲中富士図屏風とかも退屈だ。富岡鉄斎は、私の文人画に対する教養の薄さは割り引かなければならないだろうが、それでも特別良いとは思えない。蕪村みたいに、そのジャンルに興味のない人間を引きつけるだけのものがないと思う。それでも富士山図屏風とかは、大観に比べれば数段見ていられる。鉄斎の勝ち。


いやー久しぶりにblogらしい事やったな。2つに分けるべきだったかな。全部読んでくれた人はありがとうございます。