土曜日に、ふとテレビをつけたら、上下が切れて横長になった画面に、道路の向こうから歩いてくる子供二人をとらえた映像が出て、あ、と思った。これは普通の映像ではない、と思って、もうチャンネルを動かせなくなった。これは映画なのだ、とその明らかにフィルム的な荒れ方をしている画面を見て思い、間違いなく北野武の映画なんだと思ったら果たしてその通りで、私が見た事のない「菊次郎の夏」だった。そしてそのまま、最後まで見てしまった。録画することも忘れていた。


たぶん、「菊次郎の夏」は、北野映画の中ではそんなに優れたものではなく、なおかつ完全な失敗作でもないという、半端な位置にあると評されるのだろう。だけど、こういう言い方は、北野武の根本的な凄さを隠してしまうと思う。「菊次郎の夏」は、言ってみれば「ソナチネ」から死という要素を抜いたような映画で、ひたすらヤワな、人の感傷とかノスタルジーとかいう、情緒に訴える「お涙頂戴」映画とも受け取れる。つながれるシークエンスごとのアイキャッチみたいな、ファンシーなカンバンは心底ダサいし、少年の背に付けられる天使の羽とか笑えないし、いちいち入るピアノの音楽は鬱陶しくてしかたがないし(なんで音を消せないのか)、所々に入るニッポンアピールに国際賞狙いみたいな臭さも感じる。だけど、そういう、けして完璧ではない、むしろ隙だらけの作品だからこそ、私は北野武という人の圧倒的な貴重さに飲み込まれてしまったように思う。


私が最初に眼を奪われた、歩く子供のロングショットに、この映画の一番魅力的なコアが含まれている。要は、二人の子供が夏の長い道を歩き続ける像を遠くから固定カメラで延々捉えているのが「菊次郎の夏」という映画で、たったこれだけの、単純きわまりない映像が、決定的に美しいために、他のあらゆる弱点が本来映画においてはどうでもいい事なのだと思えてしまうのだ。ここで北野武演じる菊次郎はダメな大人というよりは大きな子供なのであり、その、年老いてしまった子供が実際に幼い、しかし妙にふけた顔をした子供と連れ立って農道を歩く。海辺の町を歩く。砂浜を歩く。こういったシーンの連なりがありさえすれば、音楽が通俗的だろうが鳴りっぱなしだろうがどうでもいいし、空から合成の天使の鈴が降りてくる安直さもどうでもいい。ついでに構成が冗長なのもどうでもいい。まったく逆の映画を考えてみればいい。構成が緊密で、音楽が適切に節度をもって使われ、無駄な感傷に流れていない、しかし凡庸な映像で撮られている映画。


作家が、ぎりぎりに自分を高めて「成功」させてみせた作品が面白かったりするのはある意味必然だし(実際はけしてそうではないのだけど)、だらしなく作った作品が単にだらしないのも良くある話だ。「菊次郎の夏」は、多分北野武の可能性が十全に研ぎすまされた作品ではない。にも関わらず夏の空とか川の水とかが、ゆるぎない感じで定着されていて、だからこそ余計にダメな部分とのコントラストが高まってしまい、もろに北野武の、他の誰にも真似できない「才能」がむき出しになっているのではないか。才能、という言葉には慎重でありたいと思うけど(だってそう言ってしまったら完全に思考が止まってしまう)、でも、この、明らかに半端な作品の、その半端さすらどうでもいいと思わせてしまうショットを連ねてられると、それはもう才能、という言葉を使うしかない。


もちろん、子供が二人歩くだけで素晴らしい、と言ってしまうのは貧しすぎるのだろう。作中仰天してしまうのは細川ふみえという女優がこんなにも魅力的に見えてしまうという事実で、「え?これがフーミン?」と疑ってしまうほどくっきりと画面から浮かび上がっている。濃い緑を背景に白い衣裳で(髪の毛を短くして)、なおかつまったくアップもバストショットも使わず全身だけで撮るからこういう事が可能なのだろうけど、それにしても、母を追う少年に、腰を屈めて繰り返し硬貨を「はい」と渡すシーンの甘い官能性は、この映像上の引き絞りと相乗効果を起して天国的なまでに幸福だ。無責任に言えば細川ふみえという人は、あのシークエンスを出現させたというだけで現役の凡百の女性タレントに対して一生優位を主張できると思う。


そして、その幸福感があるからこそ、バスの来ないバス停にあっさり二人の子供を置いて行く細川ふみえとその恋人の、すっぱりとした冷酷さが際立つ。それだけではない。この映画の前半では繰り返し菊次郎と母を探す少年が「大人」に捨てられる。そもそも、母を捜そうとする少年を、いくら知り合いとはいえ、だらしない男との二人旅に2,3日送り出した、と言われてあっさり納得する少年の祖母が不自然だ。明らかに実行能力のない夫と少年を見送る菊次郎の妻(岸本加世子)と祖母が交わす会話には「子供」の面倒を見ることに疲労し、その疲労から開放された女の安堵が色濃くにじむ。祖母は、おそらく、この旅で事故や事件がおきても仕方がない、とどこかで考えているし、それは菊次郎の妻も同じだ。ここでは密やかに子捨てが行われている。祖母から菊次郎の妻へ手渡される「お礼」に、子供を捨てられた開放感が広がる。


細川ふみえと同じように、ホテルの従業員もまた、菊次郎と少年に情をかけ、優しさを見せながら最後にトラックの停車場に二人を置き去りにする。バス停の男(ビートきよし)すらも彼等を捨てる。もちろん、映画半ばの少年の母も彼(彼等)を捨てている。そこには大人達の生活と社会と事情がある。菊次郎と少年も、そういった大人の圏域ではやっかいなはみ出しものでしかない。彼等は子供だ。だから大人は、少しだけ優しい。そしてそれまでだ。大人は、自らが大人であることで精一杯で、子供の子供性を引き受ける余裕はない。だから、彼等は、自分のできる範囲で彼等に係り、最後は捨てる。


そして、そのように前半で全ての大人達から捨てられた子供は、子供だけでその傷から回復しようとする。詩を書いたりしながら放浪する青年に加え、することなのいバイク好き二人組みんなで繰り広げられる河原のキャンプは、そんな「捨てられた少年達」のグループ療法だ。ここでは全員が少年で、まさにその少年性だけで全員が繋がり、夢の夏休みが繰り広げられる。繰り返される「子供がかわいそう」という言葉は、大人の圏域に居場所がなく、詩を書いたりバイクを乗り回したりしている青年達自身でもあり、ガキ大将としてふるまう菊次郎のことでもあるだろう。捨てられた少年達は、母性でも父性でも救われない。この世界にそんなものはない(あるいは限りなく縮減している)。少年は、少年性によってしか癒されない。


しつこい音楽や安易な天使の映像がまったく気にならなかった私が、俄然ひっかかったのは最終シーン、菊次郎と少年が分かれて、橋をかけていく少年の後ろ姿をやはりロングで捉えたショットで、ここで画面右下に映り込む川が、はっきりと泥色をしていたことだ。妙な言い方になるけど、ごく構造的な要請として、絶対青いきれいな水色であるべきではないか。北野武はなんの補正をかけることなく、この川を汚く捉えている。そして、駈け去る少年を、恐ろしく老いた顔をした菊次郎が見送る。ここで菊次郎は、前半の大人達と同じように少年を捨てたのだろうか。あるいは、菊次郎が少年に捨てられたのだろうか。いずれにせよ、このシーンは、ひたすら甘いカットばかりだったこの映画で唯一ヒヤリとする箇所で、自分で監督して自分の顔をこういうふうに撮れる北野武ってどういう人なんだろう、と思った。