時間がたってしまったけれど、「印象派の巨匠ピサロ展」という展覧会を見ていた。率直に言ってあまり充実してはいなかったのだけれど、奇妙な記憶の残り方をしている。まず気になったのがピサロ筆とされていた、いくつかの作品のダメさ加減だ。もちろん、この展覧会に貸し出されていたコレクションの質をもってピサロ全体について言うのは公正ではないだろう。そのことを前提にして言えば、ピサロには悪くない意味での「ゆるさ」があって、これはけして失敗作・駄作にだけ露呈するのではなくて、充実した、良い作品にも、わりと大事な部分でその「ゆるさ」を見せている気がする。こういった「ゆるさ」を持ち合わせていた人が印象派のマスターの一角を占めている、ということが、興味深く思えたのだ。


「チュイルリーの庭園、雨天」と題された作品はこの展覧会で見る事のできた、もっとも質の高いものではあるのだけど、この作品も、本当に最後まで詰めて、一分の隙も見当たらない、という作品ではない。私が何度か反復して見た事のあるピサロで良いものといえば、埼玉県立近代美術館の「エラニーの牛を追う娘」や、川村記念美術館の「麦藁を積んだ荷馬車、モンフーコー風景」で、これは絵の具の乗りが厚く、充実した感覚があるが、同時に何かが混濁していて、はっきりと絵の中核のようなものが純度100%まで濾過されていない。その、不純物の多い屈折した有り様に、ピサロ的というしかないゆらぐような色彩の冴えがある。この「冴え」というのは、不純物や屈折に邪魔されながら垣間見える、というものではない。そこのところがピサロの面白さだ。乱暴にいえば、そのような不純物や屈折それ自体が輝きを見せるときがある、という感じなのだ。


だから、今回見たコレクションの中でもっともつまらなかった作品が、ピサロによる新印象派的作品、つまり色彩をタッチに分解(筆触分解)して並列した点描法的な作品だったことには、ある程度納得がいく。つまり、このやたらめったら分析的な描法は、その原理的な部分においてピサロの美点と相容れないわけだ。明晰に、システマティックに「作業」する必要がある点描絵画は、ピサロにおいては心底単調な、図柄以上の何でもないヒドイ結果しか生んでいない。年若く早世したスーラの影響をここまで真っすぐ受けられるという意味では美術家として立派は立派なのだけど(こういうことって難しいものだと思う)、ほとんどなんの成果も生み出していない。ピサロは、その筆跡から考えると、たぶん「迷い筆」をしながら絵を描いていく人で、もうこれしかない、というような厳しい一筆を積層しない。


ボナールとかは、一見タッチがぶれて「迷いながら」描いているように見えるけど、その迷い方がピサロとは異なる。ボナールは、色彩を最初から光のブレや振動において捉えていて、その作品において実現したいことはほとんど最初からある程度見えているように思える。対して、ピサロの作品には、もっと「何となく描き始めて、なんとなく描き終えた」かのような感触がある。描きたいことや、実現したい事がないまま、ふと描き始めて、「何かを達成した」という確固とした根拠のないままに筆をおろしている。コンセプトがない、と言えばそれまでなのだけど、それが弱点にはならずに、いつのまにか、ピサロでしかありえない、つまり「何となく」という感覚だけが含み込める豊かさを抱え込んでしまっているように思う。


これはけっして、コンセプトが明確で強い意志と厳しい判断を下してゆく「立派な」画家に対して、「ゆるい」画家、つまり才能を欠いた画家にも可能性がある、という話ではまったくない。むしろ絵描きの立場からみれば反対で、明晰さも強さも自らを絞り込んでゆく厳しさももたないまま「何となく」描き続けた絵がいつの間にか豊かであり得る、なんてことは、それこそとんでもない才能でもなければあり得ないことで、こんなことが出来る画家などそうはいない。むしろ「努力」してコンセプトなりアイディアなり技術なりを磨いていくことの方が、相対的には数段とっつきやすいだろう。つまりピサロを見て、別段ぎんぎんに自分を引き絞って努力しなくても、「ゆるく」やっていれば良い絵が描ける、と思うにはとんでもない楽天性を必要とする。展示中に、ピサロセザンヌがベンチで家族と一緒に話している写真があって、あのセザンヌが心を開き影響を受けた数少ない画家がピサロだったことを思うと、ピサロという人の底知れなさが、どことなく感じ取れる。