京橋のASK? art space kimuraで見た木村太陽氏の作品が気持ち悪い。そして木村氏の作品では、この気持ち悪さ=生理的違和感が「軽く」見えてくる。この「軽さ」の質、というものについて考えることが、たぶん木村氏の作品を経験してゆくときのキーになるんだろうと思う。今回の展示で一番成功していると思えるのは、ストッキングのような素材に柔らかい素材を詰め、会場の扉に挟んで床に延ばしているものだ。レッグウオーマー状のものが巻かれ、おおよそ等間隔に細く絞られたそれは一見人間のふくらはぎが連続しているかのように見える。無論、それが足でないことは一目見ればわかるのだが、そのストッキング素材が詰め物で膨らんだ表面の質感だけが生々しく「肌」のイリュージョンを引き起こす(かがんで近づいてみれば、部分がトリミングされこの「錯覚」が強調される)。無造作な展示は雑木林に遺棄された布団のような不潔で不穏な感触があるのだけど、この感触が「軽い」のだ。


重い気持ち悪さ、とはなんだろう?それはおそらく、ネガティブな問題の重さだ。身体的な不調やバランスの崩れがもたらす不安は、その先に死を予感させる。アートにおいては、個人の身体や精神の表象として、生理的感覚を扱うものがある。ここでは「気持ち悪さ」は、パーソナルな「私」の世界の代理となる。更に「重い」ものは、ジェンダーや社会的差別といった主題を取り扱う時に、そこへのインターフェースとして生理的な感覚を惹起させるものがある。様々な文脈やコノテーション、文化的な観念といったものがまとわりつく。具体的な作品や作家をあげることはしないが、例えば国立近代美術館で開かれた「痕跡−戦後美術における身体と思考」展の、BODYのセクションなどには、そういった作品が散見された。こういった作品は、「気持ち悪さ」が、それだけで完結せず、より大きな「問題」に繋がっている。そしてそれは、「問題」にたどり着いた後、おうおうにしてそれを見た個人の「罪悪感」に還流してくる。この「重さ」がアートの価値を担保している。


木村氏の作品がもたらす「気持ち悪さ」は何にも繋がっていない。それを繋げようとする人もいるだろうが、間違いだ(それでは木村氏の作品の独自性が消えてしまう)。ストッキングに詰め物されたオブジェクトは単にオブジェクトであって、そこで引き起こされる生理感覚はそれ単独で独立している。そして、独立した「気持ち悪さ」は全くネガティブではない。それはピュアに神経信号であり、罪とか「問題」から切り離されている。そして、そのような「気持ち悪さ」は、奇妙な事に新鮮さをもっている。重い筈の気持ち悪さが、新鮮だという落差が、すなわち木村氏の作品の「軽さ」の核になる。


なぜ単独の「気持ち悪さ」は爽快なのだろう?おそらく、単独の「気持ち悪さ」は、それを感じる主体から距離をもって観察可能な「気持ち悪さ」になるのではないだろうか。問題や不安を含まない「気持ち悪さ」は、意識から切り離され、一種の乖離状態を引き起こす。「私」の「気持ち悪さ」は「私」から離れて、鑑賞し、時に操作可能ですらある。木村太陽氏の作品を私が最初に見たのは「MOTアニュアル2000 低温火傷」の時で、展示されていた「ルーティン」は、壁につけられた蛇口から布が袋状に伸び、詰め物をされた下半身のジャージに繋がっていて、壁から無様な下半身が“漏れている”ような展示になっていた。このときから、木村氏の基本的な手法は変わっていない。最近では2005年のヨコハマポートサイドギャラリーでの展示も見ている。ここでは様々な手法が試されていたが(ランダムに動く縄跳びとか、壁にささったのこぎりとか)、それでも、その中心にある木村氏の資質は一貫していたように思う。


木村氏にとっての「気持ち悪さ」は執拗な(つまり、単に操作可能な武器/手法ではない)モチーフなのかもしれない。木村氏の作品はなぜか古びない。そこで立ち上がる感覚はその度に「軽い」ながらどこか不思議な内実をもっている。それをリアリティと言ってしまうのは簡単だし、ましてや作家の心理的なものに連結させてしまっては「軽く」なくなってしまう。洗練された手法の手つきに、世界に触れている木村氏の感覚がおそらく的確に反映されていて、それが「軽い」気持ち悪さに普遍性を付与しているのかもしれない。100年後にどのように見えてくるか、想像したくなる。


●木村太陽+ポル・マロ 展