古谷利裕さんが去年書いていた、ピカソに関する記事(id:furuyatoshihiro:20081210)を読んで、それは確かにそうだよなぁ、とおもいながら、古谷さんの言う「身の丈に合わない」という所を、自分は積極的に捉えようとしている事に気づいた。つまり、ピカソにとっては、絵が動かないという事に対する疑念が、積極的に現れていたんじゃないかなぁ、と思えたのだ。年を渡って、けして根をつめていたのではなく断片的にしか考えていなかったので、上手く形になっていないのだけど書いておく。


ピカソの絵を見ていて思うのは、画面がなんだかフレームの「外」へと出ていきそうな、あるいは入ってきたような感覚があるということだ。例えば1901年の自画像、1904年のラ・セレスティーナの2点の肖像で気になるのは画面向かって右下の、上半身の切れ方で、どこか中途半端な印象をうける。この半端さは、一見古典的で安定した構図に奇妙な揺らぎを生んでいる-まるで、カメラのフレームに、人物が画面左下からふいっとフレーム・インしたような感覚を与える。このような「動く」感覚が、ピカソの作品の全てとは言えないまでも、生涯にわたって感じ取れる。


上記で上げた例は、いわば画面をカメラとして捉えた言い方で、似たことは例えば「アヴィニョンの娘たち」でも良く言及されることだと思うのだけど、それは主にトリミングの問題だった。すなわち、初期の構想では画面向かって左に男性がいて、群像の娼婦を見ていたのが、舞台が90度回って、当初描かれていた娼婦を欲望する男の場所に観客がくるように、娼婦が正面から描かれるようになった、ということだった(スタインバーグ)。


私が思うのは、この指摘で重要なのは、静的な舞台に対するカメラ位置、つまり「どの方角から見るか」という切り取り方の問題ではない。もっとダイレクトに画面が「動く」という所にポイントがあるように思う。「アヴィニョンの娘たち」の構図の変化は、単に残されたエスキースからのみ見えてくる実証性だけにとどまらない。その「動き」は完成作自体に内面化されているように思う。つまり、「アヴィニョンの娘たち」が孕んでいる、不安定でゆらゆらと立像群がふらつくような構成に含み込まれているように思う(私は「アヴィニョンの娘たち」の実作を見ていないので推測でしかないけれど)。


一般に絵は「動かない」ものと言われていて、そのこと自体が主題にもなる。未来派が当時の先端技術だった自動車等の乗り物を絵に導入するとき、その「動き」を「動かない絵」の中でどのように「表現」するか、という処理=画面上のテクニックが問題になった。マンガのような効果線を乗り物の周りに描いたりしたわけだ。


さらに、単一のもののダブルイメージを描く、という手法もあって、デュシャンの「階段を降りる裸体」は代表的な例だろう。ただ、これらはそもそもの前提として「絵は動かない」という観念を固定した上での「工夫」だ。そういう意味では平面である画面に奥行きのイリュージョンを与える遠近法と同じ水準のものとも言える。ピカソの絵を見ていて思うのは、この「絵は動かない」という前提そのものを疑ってかかるような眼差しがあるような気がする。


絵は動く。なんの根拠もないそんな一点は設定可能かどうか?ピカソの絵をそのように見ることは恣意的かもしれない。この「動き」は「動かない絵」をなんとかする工夫(イリュージョン)のレベルではないし、ましてや即物的に動かしてしまうような話でもない。それは知覚認識上の問題だと思う。このような「動く」感覚を、私は去年「製作的時空間」というような変な言い方をしたのだけど、こういう感覚は、多分絵画-本来動かない絵画空間に対する特殊な働きかけがあって初めて成立するものだろう(参考:id:eyck:20081209)。