・私にとって美術とは計量可能な事物からの唯一の離脱としてあるのかもしれない。量や交換とはコミュニケーションや経済を含んだもので、だとするならそれは今の環境の大部分を覆っている。


・だから、美術はけしてコミュニケーションを誘発するツールだったりはしない。芸術は常に交換できない経験であって、例えば私が見たフィリッポ・リッピの「受胎告知」の経験は、決して誰ともコミュニケートできない。あるいは、私の制作の経験は、けっしてだれともコミュニケートできない。


・そこでは「量」が常に問題になる。ここでよくある反応が「量」という野蛮さへの抵抗として「精密さ」を対峙させる事だけど(アカデミズムとはそういう物だと思う)、もちろん精密である、ということはある基準に対して比較検討可能な「計量可能性」を担保にしているからこそ実現するのだ。


・だから、計量可能な環境、あるいは交換可能な環境(言い方を変えれば計量可能だったり交換可能な事物を価値とする体系)に「対峙」しようとしてはいけない。そういった世界に「抵抗」してはいけない。抵抗する、ということはその段階で抵抗する対象を前提にしてしまう。そして、計量可能性あるいは交換可能性というのは、それを打ち負かそうと思った瞬間に自らを交換可能に、あるいは計量可能にしてしまう。


・計量可能性/交換可能性に内在しなければそれらは乗り越えられないが、内在したとたんそれは乗り越え不可能な地盤として乗り越え運動自体をアフォードし、そして当然反語的に乗り越え運動自体が計量可能性/交換可能性をアフォードしてしまう。この終わらない相補的な関係は、あらゆる「抵抗」を無化してしまう。革命の歴史。


・美術の形式的展開の限界はそこにある。形式的展開とは常に計量可能で計測可能で交換可能で、だからそこからはいつしか「内容の充実」が消え去って行く(形式的展開とはそもそも最初から「内容」への根本的猜疑から始まる。ミニマリズムを見よ)。グリーンバーグマイケル・フリードが最後まで抗ったのはそこだろうが、しかし、やはりそのような「内容の充実」の無化は、彼等の論理に内在していたわけだ。


・そういった事態、つまり美術の形式化/計量可能化/交換可能化を前提としてしまう以上、それがいかなる言説を伴っていようと(あるいは姿勢を伴っていようと)、それは必ず交換可能性に窒息してゆく環境への隷属でしかなくなる。せいぜい可能なのはシニシズム的態度だが、そのようなシニシズムは、端的に言って古い。1990年から2001年までに既にそういったシニシズムの正当性は消えていて、いまやシニシズムは単なる現状肯定しかもたらさない。


・かといって、前述のように素朴な「抵抗」もまた無意味だ。だから、あくまでそれは抵抗ではなく離脱として行わなければならない。誤解を防ぐ為に言えば、それはけして「私」への内向として行われるのではない。離脱が行われるのはまず最初にそのような「私」からであり、そしてそのような「私」からの離脱こそが同時にそのような「私」を成り立たせている環境からの離脱になる。