那須・殻々工房での「野沢二郎 素描と油彩展ー花と心象ー」に行って来た。今回展示されていた作品のうち、油彩の多くは水戸のGalerie Cielで一度見ていたのだけれども(参考:id:eyck:20090615)、ほぼ自然光−ごくわずかに補助的な照明があるだけ−で見ることができたのは良かった。


本当は、私は、作品というのは何度か見て、初めて何か言い得るのかもしれないと思っていて、それはもちろん、一見の僅かな鑑賞時間からtxtを書いてばかりいるこのblogで、日々裏切っている姿勢ではある。だけど、美術館や寺院で繰り返し見ることができる古典ではなく、同時代の作家で反復して見て良かったと思える水準の作品を作る美術家というのは限られていて、野沢二郎氏はそういうことを可能にする数少ないアーティストなのだ(もっとも、野沢氏は以前「作品の評価は一瞬で下る」と言っていたことがあるのだけど)。


Be-h@us工法による、すっきりとした直方体の南側が大きく開口された殻々工房には、曇り日の高原の鈍く拡散した光線が入り込んでいた。当日はまばらな雨も降っていて、その水分を含んだ空気感と、絵の具が固まる前に次々手が入れられながら、混濁する少し手前ですっぱりと手を離された、今さっきアトリエから出て来たかに見える生成的な野沢氏の近作は、ちょっとずるいのではないかと思うくらい親和していた(この、愚直な画家として評されることのある作家はけっこうな頻度で「上手すぎる」展示をする。五浦の旧岡倉天心邸での床の間の展示とか)。親和、という言葉を使ったのは単に環境との関係からだけでなく野沢氏の近作の構造的な部分から伝わってくる事で、野沢氏は絵の具の「溶けていたものが空気に触れるとゆっくり固まる」性質に意識的にアプローチしてるのだと思う。そして、そのことが、氏の作品に、見る人の体へ染み込んでくるような浸食的な性格を与えている。


2006年頃の、色彩の死を感じさせかねないようなポイントから急速に反転・離脱して鮮やかな複数の色彩が配置されていく今の作品群は、ついその豊かな表情と情感たっぷりの画題から、何かイマジネイティブな作品とだけ受け取られそうなのだけど(いや、野沢氏の作品がイマジネイティブであることは事実なのだけれど)、私が今回改めて見て感じたのは、あくまで野沢二郎という画家が重用視しているのは、油絵の具というマテリアルの特性に滞留することではないかという事だ。かつて個展会場で誰かから「モチーフは何ですか?」と問われた野沢氏はためらうことなく「絵の具だ」と返答していて、そのあまりの唯物的な態度に感嘆した記憶がある。伸び、引き延ばされ、混ざり、重なり、発色するこの奇妙なものと自分の関わり合いを純化させてゆく、そのプロセスの中で、フレッシュでいつまでたっても乾燥しきらないようなつややかなマチエールが浮上してきている。何事かに見えるイメージの擬態を作る素材ではない、それ自体が何事かである絵の具とキャンバス。


もちろんこの会場で初めて見る事のできた作品もあって、それは主にコンテによるモノクロームのドローイングなのだけれども、これを習作的な意味で「デッサン」と呼ぶには抵抗がある。その完成度においても、質においても、そしておそらくは作家の意識においても、これらはタブローと同じ位置にあるものだ。要するに「タブロー/デッサン」といった、対立的な意識から流れ出て行っているのが野沢二郎氏で、それがけしてイージーな「成るようになる」的、日本的イメージ先行ではなく、上記のように自分の外にあるメディウムに正対してゆく中で成立している。


モノクロームのドローイングは厳しい余白との関係を建築している。紙へ描くことは、白い所がやり直せない緊迫があるのだけれど、今回の展示作品は「一発で決める」ような、工芸的・書道的シンプルさにも落ち込んでいない。じりじりと、コンテが強く紙にこすりつけられ、その強度が試されている。だからこのドローイングにおいてモチーフとなるメディウムはコンテだけでなく紙も含めてのことで、結果余白が単なる「描いていない場所」ではない、充実した色面として立ち上がっている。こすられ、けばだつコンテの痕跡の周辺の部分が水彩的な滲みではなく絵画的な抵抗感として見えてくるのは紙とコンテと作家の身体のテンションの限界地点が探られているからで、Galerie Cielでの展示の時感じた、油彩の、わずかな収まりのブレからくる装飾性はドローイングには一切なく、熟成という意味では油彩よりはっきりと安定している(以前も書いた通り、「安定」をふり捨てているのが野沢氏の油彩ではあるのだけど)。油彩が「速い」印象であるのに比べドローイングはずっと「遅い」。


ドローイングと油彩を並べてみていると思うのは「色彩」とはいったい何なのだろうか、ということだ。私の目には、時としてカラフルな油彩よりも、黒一色のドローイングにこそ「色彩」を感じる時がある。「複数の色」というものを、異なる視覚的効果の差異の構成、というふうに拡大的に解釈すれば、たった1色であっても「色彩」を構築することはできる。それは黒がきれいに見える、とか黒の質感が優れて見える、ということだけでは実現できない(そういうものが無関係というわけではないけれど)。あくまで、“複数の単色”の性格を描き分けて、それを適切に関係させる、ということができなければいけないわけで、そう考えれば余白の白がいかに重要なのかは理解できる。「黒」が「いくつもの黒」になるためには周囲の余白の「白」との関係こそが問題なのであって(広い白の中にある黒と狭い白の中にある黒は性格の異なる黒になる)、こういうところに野沢二郎という画家の手と目が光っている。


●野沢二郎 素描と油彩展ー花と心象ー