●夢。

大きな商業施設の中にいて、ベビーカーを押している(子供が乗っている)。何かの災害に見舞われて、大騒ぎになっている。とても広いのだけれど暗くなってしまっている空間を、配偶者とどこかへ向かって移動している。大勢の人も様々に行動し、右往左往している。コンクリートの床の大きく緩やかな坂を降りて行く。何かの事情で、配偶者と分かれて行動することになる(配偶者が「〜してくるから」というような事を私に言って離れていく)。中庭のような空間があって、高い建物が見えている。空も暗い。ふと気づくと、子供がいない。とっさに「落とした」と思って慌てる。


今来た道を、子供が落ちていないか探しながら戻る。とても焦っている。こんなところで「落とした」ら、見つけられないのではないか。分かれた配偶者の事が思い浮かぶ(彼女に責められる、と思っている)。心臓がどきどきしている。財布を落としたように、締め付けられるような過失の緊張感が満ちる。子供が「落ちている」のを見つける。


しかし、子供は手の中指ほどに縮んでしまっている。頭にキャップのようなものがついている。体は何かケースのようなもので覆われている。キーホルダーというか、携帯のストラップのようになってしまっていて、ショックを受ける。配偶者が戻ってくるのだけど、なかなか縮んでしまった子供を見せられない。少し遅れて、実は、というような感じで切り出す。そのときの配偶者の反応は覚えていない。少ししてから、近所のママ友(同じ地域の、近い年齢の子供を持ったお母さん達)と会う。やはりベビーカーに子供を乗せている。その子供達は皆普通の大きさで、私は自分の子供がこんなになってしまった事に恥ずかしさを覚える。

ここで目が覚める。


■連想1。舞台となっている大きな商業施設は前日に言ったIKEA新三郷店だろう。暗かったり、中庭があったりと具体的なディティールは異なるが、目覚めてすぐ「IKEAだ」と思った、そのことが重要だろう。


■連想2。「何かの災害」とは西日本の大雨の被害と静岡の地震が素材だろう。これも起きた直後に両方が連想された。少しだけ地震の要素の方が濃いような感じがあるが、分離できない。


■連想3。小さくなった子供のイメージは、夢の中では「キーホルダー」だった(「ストラップ」は今回この記述の中で出て来た言葉だった)。頭部のキャップは黄緑色のプラスチックだった。首から下は、回せばねじのように開くようだ、と夢の中で思っていた。今思ったが、黄緑色のプラスチックからモダンペットが連想された(http://www.playsetproducts.net/)。他に配偶者が以前買ってきた、災害時用の携帯用の笛が連想された(生き埋めになったり閉じ込められたときに自分の居場所を知らせるための笛)。この笛は金属性で一部青く塗られていて色は夢とは異なるが大きさの感覚が似ている。また実際キーホルダーの金具がついていてぶら下げられる。


■連想4。「ベビーカーを押している(子供が乗っている)」と書いたが、確かにベビーカーを押していたけれども夢の中ではベビーカーの中に子供がいることを確認していない。うちのベビーカーは持ち手が切り替えられて対面にもなるのだけれど、夢の中では前を向けて、子供の背後から押していて中の子供が見えていない。


▲検討1。起きてすぐ感じたのは「縮小した子供」の異様さだ。どうして「迷子」とかではなく、「キーホルダー」サイズに縮小して「落ちて」しまっていたのか、というのがすぐに気になった。また、IKEAでは、カーテンなどを見ることに忙しい配偶者のそばで、私が子供の面倒を見ていた。ベビーカーは持っていたが、歩きたがる子供は乗っておらず、フロアのあちこちに行きたがる彼を追って、かばんだけ乗せたベビーカーを押して歩いていた。時折、配偶者と話していて一瞬だけ商品の影に隠れた子供を見失って、二人で慌てた。このことも素材になっていると思えた。


▲検討2。「小さくなった」こととIKEAでの出来事が結びついて思いついたのは、この「小ささ」は、心理的な暗喩ではないかということだ。いわば、自分の気持ちの中での子供の占める割合がサイズに変換されたと思えた。IKEAでは様々な商品に目が移り、歩く子供を目で追わない時間がけっこうあった(だから何度か見失ったのだ)。


▲検討3。やや時間をおいて思いついたのは、インターネットで見ていた未解決事件に関しての記事との関係だ。

だが、あまり関係ないかもしれない。夢で一貫して私が感じているのは、子供がいなくなったことに関する恐怖というよりは、配偶者に対しての「申し訳ない」と言うような気持ちであり、罪悪感だ。端的なのは最後のシーンの、他の母親たちがきちんと「普通の大きさの」子供を連れていることに対する恥の感覚で、要するに私は子供に対する視線や感情が欠けていて、対外的な事ばかり気にしている。


▲検討4。また、仔細に検討してみれば、夢の最初から既に子供は「小さい」のではなく「いない」。ベビーカーは対面でなく前を向いていて私は一度も子供をみていない。そこから、子供を「落とした」と気づき、慌てて探して、「落ちている」子供を見つけるまで子供は出てこない。


▲検討5。目覚めてしばらくして、隣の部屋で起きて仕事をしていた配偶者に夢の報告をして、IKEAで子供に対する気持ちが「小さくなっていた」ことに対する罪悪感で見た夢だろう、という解釈を示したのは大筋当たっているように思ったが、単に小さくなっただけでなく、一時的に「子供への気持ちがそもそもなくなっていて、そのことに思い当たるのにしばらく時間がかかる」ことは配偶者に話してもいないし解釈もしていない。


▲検討6。このことから、目覚めてすぐ後に子供が「小さくなった」ことをフレームアップして分析し配偶者に報告している、このプロセス自体が「そもそも子供のことをぜんぜん考えていなかった」事に対する隠蔽工作として機能しているように感じられる。


▲検討7。もう一つ、思いつくことがある。静岡で地震があった時、私は深夜-未明直前まで製作をしていて、地震では起きなかった。朝、起床してテレビをつけて、地震を知って配偶者に知らせたら「けっこう揺れたよ。あなたは起きなかったけど怖かったよ」と言われていた。少し非難めいた口調に感じていた。この夢、というよりはその後の報告と解釈は、この非難(?)に対する、迂回した自己弁護になっている(このエントリ中、「少しだけ地震の要素の方が濃い」と書いている)。


☆感想1。というわけで、私の夢の解釈というのは基本的に暗い。罪悪感みたいなものにひっぱられやすい。


☆感想2。実際には、記述されないことに鍵があるのかもしれない。例えば、夢の中でブランクになっているのが配偶者だ。なぜ途中で別れることになるのか。なぜ小さくなった子供に対する反応がない(なくなっている)のか。今となってはこのへんが気になる。