東京国立博物館で「伊勢神宮と神々の美術」展を見て来た。通常、東博でのこの手の企画展では平成館の4室全部を使うのだが、今回はその半分の床面積しか使わないこじんまりした展示で、内容も地味だった。恐らく目玉は4つのバリエがある伊勢参詣曼荼羅なのだろうが、私が面白く見たのはむしろ遷宮ごとに作り替えられる刀剣その他の工芸品だ。こんなもの、本当にいちいち作り直してるのかと思ってびっくりした。昔はこれまたご丁寧に古いものがその度に破棄されていたらしく、展示されているのは発掘品と、オブジェクトの代わり?の記録(儀式帳)とかが中心で、ああ、本当に形式だけ反復されているんだなぁ、と感心した。


長い歴史の中で、それなりに栄枯盛衰があったろうし、記録も途切れていたりもするだろうから、かなりな程度融通無碍に変化しているものだと思うけど(「万世一系」という言葉と同じ程度にその継続性は怪しいだろう)、逆にいえばそのくらい可塑性があるから“残って”いるわけで、そういうしぶとさと、ある段階から観光地として賑わってしまう適度な俗っぽさに、妙に日本的なるものの起源を感じてしまう。工芸品の精緻さと比べて素朴きわまりないのが仏像から影響を受けたとされる神像で、もともと偶像表現に対する情熱のなさがかえって興味深い。具体的な造形物が「ない」、展示品に困っている事そのものが伊勢神宮というシステム(あるいは幻想)の、一番エキサイティングなところの筈で、いわばその展覧会としての空虚を味わいに行くのだとしたら、いささか出来過ぎな感じだろうか。たいしたものはありませんでした、終わり。と書くのが最もモダンな態度なのかもしれない。


そういえば最近、ごく私的な理由で神職の方に導かれて祭事を経験したのだけれど、真夏の炎天下で汗を流しながら、奏上される祝詞を聞いている時間、同時に耳に入ってくる蝉の声とか、近くを走る車の音とか、手にとまる虫を払ったりとか、様々な些事に気をとられながら、ああ、ここでは祝詞に「集中」などしなくていいのだとふいに理解した。普段気にもしない雑音を改めて聞いたり、クーラーで冷やされない体の辛さを感じたり、草が肌にふれてなんか微妙なかゆみを感じたりしている、そういう風に、自らの意識が拡散してその「場」の無数の現象に自覚的になるエンジンが神道というプロトコルではないかと想像した。屋外での、夏の正午の光線の溢れた中での体験は、白い木と紙(神?)と磁器と装束とが目の中に重なり、異様に明るく清潔で、全体に案外軽快な印象だった。


この経験から見ると「伊勢神宮と神々の美術」展は少し荘重にすぎるというか、これが「権威」というものなのかもしれないけれど(だからそこにあるイデオロギーのようなものに無自覚であることはできないだろう)、機会があれば一度くらい現地に行ってみてもいいのかもしれない。足をのばせば串本の無量寺とか、少し気になるポイントもある。展覧会から離れた現場の気象の中で(適度に俗な)伊勢神宮を観光すると、少し違った感覚があるような気がする。どうでもいいけどこの内容で1400円は高い(あと200円払って染付展もみろよ、という事なのだろうけど、そういう抱き合わせ販売みたいなことは仮にも「東京国立博物館」というところでやる事ではないだろう。まぁこれが博物館の独立法人化ということなのだろうけど)。