ギャラリー山口で先週橋本祐一展を見た。キャンバスに油絵の具で描かれている。いずれも150号を越えようかという大作で、特徴的なのは厚い絵の具層がごつごつとキャンバスの淵にはみ出している作品が目立った点だ。この結果それらの作品のフレームはすっきりとしたエッジを持たない。絵画表面それ自体は近寄ってみれば、波打つような凹凸はあるが、しかしその凹凸はオールオーバーな色彩に半ば埋没し、目立たない(エッジの凹凸の方が遥かに強い視覚的特徴を示す)。例えとして適当かどうかわからないが、どこか巨大な「おせんべい」みたいなマテリアルを持った絵画作品になっている。画面はおおよそ赤、褐色、あるいはバーミリオンのような赤系統の色彩で覆われているように見えるが、内部には微細なムラがある。うねる太いタッチは幾重にも重なり、交差している。そういった、色彩の「おせんべい」がキャンバスから独立してあるように(張り付いているように)見える。


橋本祐一氏の作品から受ける印象は、こういった物理的な特徴に反して極めて現象的だ。画面の前にたつと視界を覆うような赤の色面が物理的な平面から少し浮き上がり、光そのものとして立ち上がり始める。太陽に向かって眼を閉じた時、瞼の血管を透過した太陽光によって視界が赤く染まってしまう、そういう性質の「赤」に橋本氏の扱う色彩は近い。ジェームズ・タレルの作品が惹起する光の感覚にも近いかもしれない。このことはとても奇妙に思える。橋本氏の絵画ははっきりと物理的に重厚な絵の具のマテリアルによって形成されている。だが、実際に成立してしまった絵画平面からは、そのマテリアルが生み出す光がマテリアルそれ自体から切り離され、基底面から浮遊してしまいそうになりながら、かろうじて画面に留まっているかのようなのだ。今回展示された作品には絵の具がおおよよフレームに収まっている作品もあったのだけれども、この絵の具と光の関係の一種の危うさは、やはり「はみ出した」作品により強かったように思う(通常のエッジの作品にそういう効果がないのではない。もしかしたらエッジというより色彩のトーンの問題かもしれない)。


あまりに厚い絵の具は、キャンバスと絵の具層を分離させているかのように見える。もはや絵の具の層それ自体が半ば自律的に存在し、キャンバスはそれを支えている土台の様なのだ。キャンバスは見ようによってはレリーフの台座のようでもある。橋本氏において、「絵画」は絵画そのものからつま先立つ様に浮いて、レイヤー構成を成している。基底材としてのキャンバス、それとほぼ対等に存在する絵の具層、そしてその上に「現象」する光の立ち上がり。一般に絵画というものの成り立ちとしてこのようなレイヤードは当たり前ではあるのだが、これまた一般の絵画の傾向として表面のイメージはそれを下支えする骨格を塗りつぶす。像の純粋な現前(モニターに浮かび上がるような)こそが優れた絵画として称揚される。対して、橋本祐一氏の絵画は絵画そのもののボディを分解しつつ、かといって四散させてしまうこともなく繊細な力でそれらを仮縫いしている。


しかしこれらの事も、あくまでそのこと自体が目指されたのではなく(つまり形式的な興味から行われているのではなく)、いわば事後的な出来事だろうと想像させる理由は、橋本氏の絵画の力の本質が見る者の網膜を焼くかのような光の生成にある為だと思える。昨日関東近郊は雪に見舞われたが、降り積もった雪の夜、白く覆われた地面がなぜかそれ自体で発光しているかのようなイリュージョンを持つ人は少なくないだろう。「赤」という色彩の力に満ちあふれた橋本の「光」と雪はあまりに遠いが、しかしその光の持つ内的な有り様は、色彩の強さにも関わらずどこか無音の感覚をもたらす点でも共通している。小林正人、というよりは現代のルオーといった方が近いのかもしれないが、いずれにせよ不思議な力を持った作家だと思える。