・ある作品が誰かに「良い」と言われたとき、作り手はどこかにヤバイという感覚を持つべきなのかもしれない。少なくとも単純に喜んではいけない。もし誰かに「良い」と言われたのなら、それは多くの場合、その誰かの既存の価値観に似て、その価値観を補強している。そこに留まってしまうと芸術の契機を欠いてしまう。芸術というのは、その最大の可能性において、それ自身のうちだけに価値の体系を内包し、それ自身の価値の体系によってのみ評価される。だから、それは、他の価値観からの視線に対し垂直に立っている。これは既存の美術史、あるいは他の作品との関係がどうでもいい、ということではない。というか、だからこそ美術史や諸-作品は重要なのだ。


・芸術というのはそれまでの多くの作品の連なりが形成してきたそれぞれの価値の体系から分岐し、単独でそれら作品の連なりと独立し合うことで成り立つ。つまり既存の作品(の作った価値観)の延長線に存在する(既存の価値観に内接する)モノは、原理上芸術ではない。私は、それを、やや広い意味で「クラフト」と呼ぶ(これは一般に工芸品と言われるものとイコールではない。既存の価値基準に沿って、そこに内接する形態の製作物をとりあえずこう呼ぶだけだ。だから一般にファインアートと呼ばれる作品にも多くの「クラフト」が含まれる。例を上げればレオナルドは芸術だがラファエロの多くの作品はクラフトだし狩野永徳は芸術だが円山応挙はクラフトだ)。


・芸術とはそれまでの芸術を組み替える、あるいは再配置することで、これはもちろん単に「新しい」モードや技法を織り込めば実現するというものではない(多くの場合こういう新しさを支えている「価値観」は意外なくらい従来の価値観に内接する)。こういった組み替え、あるいは再配置を実現する為にこそ美術史は重要なのだと思う。そもそも美術史というのはそういった価値観の組み替えの連鎖のことを言うのであって、日本の近代美術が間違え続けているのはこの点をいまだに「輸入」できないでいるところだろう。


・それは、最も上手くいった場合でも「既存の価値観を転覆する」という(既存の価値観に依存した)価値観を踏襲してしまう/その価値観に内接してしまうことによってしか成り立たっていないからで、赤瀬川原平の最良の仕事などはそういうものの代表例と言えるかもしれない。大抵の場合、「新しい物が良い」という古い考えの反復でしかないものが多数なのだし、もっと反動してしまえば、あからさまにネガティブな意味で「工芸」でしかないものが「とりあえずクール」とか言われてしまう。そもそも「芸術」という日本語が「芸事の術」でしかない事は前にも書いたけれども、こういうところで「評価」を争うことはクラフトの膨大な産出にしか繋がらない。


・芸術が外部の評価に沿って判断されることが「厳しいもの」であり、外部の評価を受け付けないことを「自己満足」という俗言があるけれども、これはとても初歩的な段階でしか言えない話なのであって、芸術というのは、だから、どうしても「外部の評価」とは切り離されたものだ。だから、作品を作るものは、絶えず不安の中にいることになる。第三者に「厳しく」見られていれば作品に対して厳しくしていられる、という考え方は実は最も広く行き渡った安直な逃げ道になる。こういう逃げ道は「売れているのが良い作品」といったシンプルな場所にまでつながっている。同様に「売れていないからアバンギャルド」という逃げ道もある。なんのことはない「外」に基準があるという構造において両者は一致する。


・基準がそれ自身のうちにしかないこと、これが芸術の基礎要件になる。作品が「他者」によって形成されている空間、制度によって成立しているなら、それは非常に危険なサインだろう。また、これは複数のコミュニティや制度に渡って評価されていれば(共同体-間にあれば)良い、という一見それらしい、しかし実は単なる相対性の肯定でしかない見方とも異なる。繰り返せば、芸術は、既存の価値、特定のコミュニティに沿うものでも、それらの間にだけ相対的にあるのでも、それらに「敵対」(という名の依存)をするものでもない。そういったもの全てから切り離されて、並列して現象するものだ。そして、そういう有り様こそ、「開かれた」作品と呼べる気がする。


・発展段階段階として、教育の、あるいは製作の初期の段階でだれかの価値に内接してゆくことは勿論ありうる。しかし、いつまでもそこに留まって、そこで洗練を重ねてもどこにもいけない。今ある輪郭線を重ね書きするだけの営為でしかない。


セザンヌの凄いところは、既存の美術、あるいは作品の連なりの中に、そこに含まれた要素だけを(つまり「新しいテクノロジー」とか「アクチュアリティ」とかを一切使うことなく)利用して、そういったものとはまったく無関係な価値の形態を形成したところにあるのであって、だからセザンヌを学ぶということは、そのタッチをまねるとか、その色彩を援用するといったこととは原則的に関係がない。一度きり開かれたセザンヌの価値を追従することほど無意味なことはない。セザンヌを見るということは、その価値の組み変えを見るということではないか。マチスセザンヌから学んだのはそういう事なのだと思う。