なぜ今頃になって私は終わってしまった「ウィリアム・ケントリッジ」東京展についてこんなにも長々と書くにいたってしまったのか(1)


●●さま


永瀬です。先日は面倒な依頼を受けていただきありがとうございました。また、急に伺ったにもかかわらず応対してくださり、恐縮です。ちなみに関係ないのですが帰りがけ、前から気になっていた古書店に立ち寄りました-いまどきあの町のあんな場所に残存しているのが不思議なくらいの「古典的」な古書店です。●●さまはお入りになったことはありますか?椅子に座っていた初老の女性に一声かけて、しばらく物色して数冊(文庫本ですが)買ったのですが、棚に谷川俊太郎「二十億光年の孤独」初版本があったのが気になりました。とにかく値札をつけていない本ばかりの店なのですが、残念なことに(というべきでしょう)、あのような立地にもかかわらずほかの付いている値に関しては「まとも」でしたので、とんでもない掘り出し物、というわけにはいかないでしょう。古書店で値段を聞くのは、なかなかのテクニックが必要なものですが、あそこは私のような不器用ものでは太刀打ちできそうにありません。


さて、ウィリアム・ケントリッジ展のことですが、ご存知のようにもう東京国立近代美術館での展示は終了し、今は広島に巡回しているようです。私は会期終了近くに行きましたが、まさかあんなに時間を喰う展覧会だと思わず、後の予定のこともあって慌てました。ウィリアム・ケントリッジ南アフリカ出身の映像作家、ことに「木炭とパステルで描いたドローイングを部分的に描き直しながら、その変化を1コマ毎に撮影する気の遠くなるような作業により、絶えず流動し変化するドローイングを記録することで生まれる」(広島市現代美術館の特別展ページより引用しました)アニメーションの作り手であることは、一応了解していったのですが、とにかく作品数の多さといったら、並の映像作家の展覧会を超えていました。結論から言えば、映像に関しては初期の代表作≪プロジェクションのための9つのドローイング≫こそがマストであり、他は興味深い実験を含むものの「よくできた現代美術」でしかなかった、ととりあえず言い切っておきます。以下、基本的にこの初期作品を中心に書いてみます。


私が当日「慌てた」感覚には、単に展示のボリュームだけに原因があるのでもないように思います。そこには私の画家としての日ごろの「美術展」への接し方、長年私の身体に染み付いた習慣のようなものも影響しているでしょう。「絵」を見に行くならば、それがいかに充実した展覧会であれ、そこで過ごす時間は私にとってある程度読めるものです。最近多い「●●美術館展」のような種類のものであれば、ひどいときは30分もかけない場合があります。いや、問題はかかる時間ではない。時間の「流れ方」です。素晴らしい展示で、なおかつ自分にその余裕が有るときであれば、私も絵画展で1日まるまる費やすことがあります。ただし、この1日はフレキシブルな1日です。気に入った絵は何度も見返し、さまざまに近づいては離れ、疲れれば離れてベンチで休んだり、もちろん他の絵を見たりもします。最も異なるところは、たとえ結果的に1日すごすことになったとしても、その瞬間瞬間では「いつ帰ってもいい」1日だったわけです。


絵画というメディアは、そのような特質を持っています。いかな大作であれ、見ることは1瞬でできる。というより、そこに1日いたとしても、その一日はリニアな流れる1日ではなく瞬間の知覚の連鎖です。そこで過ごされた1日という時間の記憶もランダムアクセスされるもので、1時25分に見た時間と4時3分に見た時間は相互に独立している。対して映像作品が要請する時間は質が異なります。脚本があるかないかにかかわらず、メディアの特性として「始まり」があり「途中」があり「終わり」があります。こういった時間を展覧会で経験することが、私には訓練として不足していたといえましょう。自分が展覧会に向かうときに自動的に形成される「構え」が多分固定的で、今回のような(半ばフィルムフェスティバルのような)展示に際し、いわば身体レベルでその構えを再構成されざるをえなかった、その抵抗が観覧の記憶としてもっとも大きかったように思えます。


こんなことを書くのは私個人の勝手な問題ではありますが、しかし、ウィリアム・ケントリッジという作家が、はたして単なる映像作家ではないこと、画家的なる部分があることは、この展示を見た多くの人にも了解されるのではないでしょうか。私は上で「抵抗」と書きましたが、ケントリッジの初期作品にも、やや異なった意味での「抵抗」が強く刻印されています。その抵抗とは、到底「映像」あるいは「アニメーション」に向かないテックニックを無理やり押して映像にしている、という「抵抗」です。「木炭とパステルで描いたドローイング」を撮影し、それを消してまた描き、撮影する。まったくめちゃくちゃです。消すだけでも面倒なのに、また描く!消す!気が遠くなります。私がこの映像を見ていて思ったのは「どんだけ丈夫な基底材なんだ」ということでした。並みの紙なら、まずもちません。実際、同時に展示されているドローイングやデッサンを見ると、けして弱い筆力で描かれてはいない。かなりしっかりした定着をさせています。1カットをどのくらい描いて消しているのか、それはそのときさまざまですが、1カットは1フレームですから、紙を変えることは原則できない。面倒だという以前に物理的な「抵抗」がある。実際、ケントリッジがはっきりと意識的に捨てているのは色彩です。黒い線は何度消しても(それも限りがありますが)改めて引けば純度の高い「黒」であることが可能です。しかし、これが多彩色となれば、書き直すごとに色は濁るでしょう。「流浪のフェリックス」などにごく限定的に青や赤などが現れますが、原則的に色彩は他の色彩に対し色彩なのであって、象徴的に使われる青・赤はむしろウィリアム・ケントリッジの色彩に関する「あきらめ」の表れです(このあきらめは作家の能力の問題ではなく、ごく物理的なことであることは改めて強調します)。


そして、この、さまざまに無理を押して作成された「映像」には、「映像」としての得意技がまったく見られません。それはつまり滑らかな動きであり、鮮やかな世界の再現性です。動きはまったくぎこちないし、そこに示される「世界」は稚拙な「世界」でしかない。皮肉でもなんでもなく、いまどきの映像専門学校の学生ならば、遥かに「迫真的」な映像をいとも簡単に作ってみせるでしょう。そして、ここが彼の「魔法」になるのですが、そここそ、つまりメディウムの「誤操作」から生まれる限界・エラーの表れにこそ、「迫真性」とはまったく違うレベルでのケントリッジのリアリティがあるのだと思えます。


一般に、画家が映像を志向するとき、そこには「固定してしまう」イメージを「自由に開放したい」という欲望が内在するのではないか。1枚の絵は、どんなに頑張っても、基本的に1つのイメージしか提供できないのです。もちろん、この言い方にはさまざまな留保が必要ではあります。絵画史とは、こういった素朴な限界への挑戦の歴史でもある-たとえばイコンなどは「見ている」の表彰であると同時に「見られている」表象ともいえますし、有名な「壷と横顔」の錯視図では、1枚に横顔と壷が描かれている。私がフィレンツェで見たフラ・アンジェリコ「嘲弄されるキリスト」(参考:id:eyck:20060112)なども、一枚の作品に複数の水準が折り重なっている好例です。ですから、こう言い換えましょう。画家とは、固定する単一のイメージに抵抗する存在であると(この言い方も突っ込みを受けそうですが)。要するにどちらにせよ、絵を描くということは「動かないイメージ」とどのように関わりあうかという課題を含まざるを得ません。それは、最初に私が書いた、「作品を受け取る時間の特性」と深く関わります。絵画が実に「瞬間的」メディアであるのに対し、映像の継起的表れが孕む時間は、次々と沸き起こるイメージの流れとして感じられるでしょう。「絵」をしかし「動かす」アニメーションとは、ですから、様々な手法でこの困難・抵抗を回避します。日本のリミットアニメなどは_、その技術の極端な洗練でもある。現在飛ぶ鳥を落とす勢いの製作会社「シャフト」の作品(化物語はすごい!)など、ぜひ彼に見てほしいものです。


ところが初期ケントリッジはあえてこの抵抗、メディウムによるひきさかれを引き受けます。なぜ、こんな面倒なことをするのか?(続く)