・草と土がまだらになった地面を、長男が走る。それは、どこかに向かって走るのではなく、走る事自体が目的となっているような運動で、柔らかな空き地の起伏を、駆け上がり駆け下りて飽く事がない。ふいにゆっくりになって斜め前をみて、私を振り返って「いぬ」、と言う。散歩している犬を目指してまた走る。菜の花はもう終わっている。少し前は、畑の一角に群生した黄色いつぶつぶの群れが強く香っていた。今は植え込みのツツジが最盛期らしく、ショッキングなくらいの赤紫が帯状に流れていく。もう少し行くと低いところにしゃがが咲いている。犬に追いついた子供は吠えられて、少しすくんで、私を見て、また走り出す。たたた、とリズミカルな足の運びはすっかり少年の確かさで、こけつまろびつ、といったあやふやさの残っていた昨年のものではなくなっている。


・彼と暮らし始めて二年と半年が経過した。いまやそれ以前の生活が思い出せない。私はいったい、彼が来る前に何をしていたのだろうか。別に劇的に何かが変わったわけではない。今と同じ様に生活し、絵を描いていた。思い出せないという意味では、まだ彼が歩けず未分化な赤ん坊だった頃のことも思い出せないのだ。もうあの頃の彼には会えない。もう昨日の彼には触れられない。今朝話せなかった言葉を今話す。さっきできなかった事が今できるようになる。刻一刻と、無数の彼が現れては消えて行き、過ぎ去った彼には二度と会う事ができない。


・雨のように私には毎瞬間、新たな彼が贈与されている。浴びるように私はこの贈り物を受け止められなくて、その全てが私をすり抜け世界へ返還されていく。私は、子供を持つというのは、自分から自分でないものに、何事かを与える立場になるのだと思っていた。愛情を、教育を、言葉を、環境を、親は子供に与える。そういう思い込みがあった。しかし違った。子供は親にいろんなものを贈与する。愛情を、教育を、言葉を、環境を、子供が親に与えるのだ。私は今までこんな愛情を知らなかった。私は今までこんな認識を知らなかった。私は今までこんな言葉を知らなかった。私は今までこんな世界を知らなかった。そしてそれは明らかに私個人のキャパシティを越えていて、ほとんど何も掴むことができない。


・彼はそんな私に一切頓着しない。与えられるだけ一方的に与えて、自分は全てを確認し吸収するのに夢中なだけだ。一時も目を離せなかった筈の彼が、いつのまにか一人で看板のかな文字を読んでいる。その顔を見ていると、はっきりとした意志と欲望を持った「人」として存在しているのが分かる。彼の時間は私と独立して形成されている。彼が出来なかった事の悔しさは私にはわからない。彼ができるようになったことの充実は私にはわからない。それは彼の、彼だけの経験であり認識だ。なんでも目にし、なんでも手に取り(時には口に運び)、なんでも投げ捨てる。私は彼の後を追い、彼が放り捨てる事物のかけらだけを、ちょっとだけ目撃する。それで十分であり、それしかできない。こうして私と彼は、健やかに一人一人だ。