twitter作品評・「絵兎(えと)」展での上田和彦氏の作品

吉祥寺のGallery Face to Faceで開催中の「絵兎(えと)」展に出品されている上田和彦氏の小品について、twitterで作品評のようなものを試みました。140文字という制限、またフォロワーの方のタイムラインに刻々と現れては流れ消えていくメディア上での作品に対する記述がどのようなものになるか、という試みでした。ログは流れてしまいますのでここに転載します。エディターなどは使わず、twitter入力画面上で即興的に書くこと自体がコンセプトでしたので、誤字などが酷いですが、あえてそのまま掲載します。

・子連れで吉祥寺のGallery Face to Faceへ。自分のグループ展間近でここしか時間がとれなかった。雪がたいしたことなくてありがたし。


・上田和彦氏が「兎」のテーマで出品していた小品はちょっと新鮮な感覚。細かい筆を使って密度を十分に上げているため、各タッチが細かく交差し、結果色彩が小さな単位で点描的に明滅する。


・しかしその「点」はあくまで線(ストローク)が分断された結果の点であり、いかに短い単位であっても上から垂直に置かれただけではないベクトルを内在した点である。


・同時に、筆を画面から引き離すときに筆に引っ張られた絵の具がデザートの飾りの飴のように細く持ち上げられ固まっている。細かく分断された点状の線は、そこかしこで画面に対し垂直の上昇感覚を立ち上げている。


・一般にブラッシュストロークの垂直性は画面に対し「押し付けられる」ものとしてある。しかし、小さな画面に過剰に絵の具のストロークを積層させ、「線」を分断して「点」にした上田和彦の作品は、どこかで基底としてのキャンバスが埋没し消失し、絵の具の粘土だけで成り立っているかのような様相となる


・そこではむしろ絵の具を押し付ける前提としてのキャンバスではなく、いかに絵の具を分断するか、いかに筆を離陸させるかが課題となる絵の具の「湖」があることになる。が、この湖は粘土を保ちながら全てが混濁するような沼ではない。あくまでストロークが分断される、分析性を保った湖なのだ。


・このような、絵の具を流動体の状態で維持しつつ、全てを混ぜ合わさずどこまでも微分的であろうとする特質は2009年の上田氏の個展(http://bit.ly/gKG7Sf)でも感じられたが、今回の作品ではそれが更に徹底されているように思える。


・最初から微分可能なことがわかっている固体を微分するのではない。流れ混ざり合い混濁する危険を内在する半流動体としての絵の具を、その状態のままで捕獲し微分する。この困難こそ上田和彦にとっての「兎」なのだろう。


・最後にこの展覧会に上田氏が寄せた文章を引用「主題は常に外部から与えられる。主題と制作とは距離を持たなければならない。理念化された野兎は制作を規定し、一方で作品から逃げ去る。」(http://bit.ly/eUN2UT)明日2月13日まで。http://bit.ly/10d4Dt


・初めてtwitterで作品評のようなことをやったけど、難しいのと同時におもしろいですね。ちなみにエディターなどはつかわずtwitterの入力画面だけで書きました。厳密にはなりえないけどある種の疾走感にまかせた決断の連続になる。


・この感覚こそ「兎」としての上田和彦氏の作品に対しとる姿勢かなと。上田和彦さんは二人展も開催中。http://bit.ly/iks07w