幻想の折り畳まれた襞あるいは夢

座間のギャラリー・アニータで上田和彦 片岡雪子展。カントの言う「物自体」が人の知覚に現れることはあり得ない。「物自体」は認識の地平線の向こうにある。それを例えばイメージの破れ目、というようなもので垣間見せるなどということは定義上不可能だ(にも関わらずその種の可能性を匂わそうとする意味不明な言説がたまにある)。美術において、イメージを成り立たせている素材を提示しようとする試みは反復して行われているが、それは勿論「素材というイメージ」を見せることができるだけだ。片岡雪子という人の作品は、一見、いわゆる視覚的イメージを造形せずマテリアルの現れを目指したものであるかのように見える。紙や木材、木枠に張られたキャンバスなどに顔料を塗布し磨き上げ、鉛色あるいは赤褐色のサーフェースに覆われた小さな立方体や蛇腹状に折られた紙、円形あるいは方形の平面作品となるオブジェクト群が、元洋品店だったという表情のある空間に呼応するように配置されているのを見る時、いわゆる色彩のコンポジションやデッサンによる視覚像が再現されていないことから、多少の美術知識を持った人ならばマテリアルの顕現、といった言い方をしたくなるかもしれない。


だが片岡氏の作品は、物質「それ自体」への指向、といった考えとは全く無縁なのだと思う。この作家が作品に纏わせているのは、イメージをはぎ取った剥き身の存在ではなく、あくまで再現表象とは別種の幻想、しかも幾重にも積層された幻想なのだ。個々の作品にあるのはミニマルな感覚ではなくむしろバロック的に折り畳まれた、過剰なまでの「装い」で、即物的なものではなくどちらかといえば心理的なもののように思える。こういった幻想的マテリアル、という意味ではヨーゼフ・ボイスにおける脂肪、ヴォルフガング・ライプにおける花粉が想起されるし、鉛質の表面(片岡氏の作品において重要なのは、それが立体であろうとなかろうとあくまで「表面」である)から「革命の女たち」を作ったキーファーといったドイツ系列の作家達が浮上する。また河口龍夫の一時期の作品(先の東京国立近代美術館の展示ではなく1998年に水戸芸術館で開催された個展に出品されていたようなもの)なども思い浮かぶ。


が、ここで片岡氏の納まるべき美術的系譜を推定してもあまり意味はないのだろう。連想的に幾人かの作家を列挙して直ちに考えつくのは、彼等に等しく付加される誇大な全体性への意志だが、片岡氏にはそのようなベクトルは感じない。むしろ片岡氏の作品は断片的で、夢の中で触ったものの感触を起きてから思い起こすような「確認できないからこそ確信するしかないイメージ」を内包する。私が片岡氏の作品を初めて見たのは2008年に森岡書店で開催された二人展の時で、狭い店内のそこここに置かれた作品達は、個々の作品単独で存在しているというよりは、ピースの連なりによる空間的リズムを形成しており、それはまるで作品を言葉に見立てた現代詩のようなものだった(この点でも先の作家と異なる。彼等は詩的というよりはむしろ物語的、神話的だ)。二回目に見たのは昨年のグループ展「零のゼロ」展で、埼玉県立近代美術館の一般展示室に置かれていた箱と球体のオブジェクトは、あまり成功していなかったように思う。今回の展示はおおよそ2008年のものに近かった(箱と球体のオブジェクトもあったが、やはりこれは成功していない)。


改めて言えば片岡氏の作品において重要なのは目に見える表面が組織する、目に見えない幻想の起動であり、作品の可能性は常に纏われたイメージのベールの向こう側に予感され続けている。と、このように一度言った場所において、マテリアルはついにイメージの向こうへ逃げ去ってしまっているのだろうか。恐らくそうではない。むしろマテリアルは常に作品が立ち上げる幻想において初めて自律すると、片岡氏の作品は主張している。例えば同じ会場に相対しておかれている上田和彦氏の作品が、まるで西欧絵画のように、木の板に石膏で下地を作りそこに半透明の油彩を積み重ねることで古典的マチエールを確保しようとしているとき、それに向かって「アクリル絵の具を捨てたのは勿体無い」と、惜しむというよりは非難めいて口にする片岡氏は、上田氏の「古典性」が、あまりにも直接的な素材の建築によってリテラルに構成されていることに厳重な異議申し立てをしている。マテリアルの有様は「作品」が自律的に展開する独自の幻想によってこそ規定されるべきだし、その論から言えば、古典的素材を使い古典的技法を積み上げることによって得られる古典性などというものは、あまりにベタではないか=剥き身にすぎるのではないか(アクリル絵の具でだって古典性は確保できるのではないか)、と。


このような言いようは的確なものなのだが、しかし片岡氏が織り上げる作品の幻想も、必ずしも十全に堅固なものとは言いがたい。私が上手くいっていない、と判断した「零のゼロ」展での球体と箱の作品は、皺のよったような表面(そう、あくまで表面だ)が厳格な幻想のフレームを組織できず弛緩し、こういってよければ直接的な素材となっている。このような“幻想の破れ目”からは美意識・趣味が露出してしまう。片岡氏の最も成功している作品は木枠にキャンバスを張って顔料を塗布したものだと思うのだが、そこで自律している幻想がなんとか押しやっている美意識・趣味=作家自身は、不意に球のオブジェで再帰する。この危機は常に片岡氏の作品に含まれていて、これを押さえ込むには相当の抑制的制御が不可欠だろう。そういう意味では、トレーシングペーパーをキャンバス状に折りたたんで、紙風船のように中空で展示していた作品が、片岡氏の作品としては例外的な軽快さ(片岡雪子氏の装いの慎重さは、その緻密さと引き換えにどうしても軽さを手放しがちだと思う)を獲得していて新鮮だった。自らの幻想の及ぶ範囲を厳しく維持しているように思える作品の、意外な突破口が、美しい、作品の皮膚だけのような佇まいに見てとれた。