この場所でのシュルレアリスムの不可能性、あるいは岡本太郎の虚無に至る道

国立新美術館シュルレアリスム展。私はシュルレアリスム、というものがよくわからない。個々の作品の魅力が分からない、ということではない。また、定義や意義がわからない、というわけでもない。シュルレアリスムは日本で、この種の西欧の美術ムーブメントとしては特権的に広く知られている。今回も資料が展示されていたが、1934年にはシュルレアリストとして重要な詩人、エリュアールが紹介されていたのだし、関連の書籍は今にいたるまで多く出され、作品も愛好者は多い。ダリやマグリットは小学生でも知っていて、レオナルドやゴッホ並の認知度だ。「シュール」という言葉は美術あるいは文学の文脈を離れて、日常語として使われている。シュルレアリスムのような、はっきりしたベクトルを持って開始された概念的な「思想」が、ここまで日本の社会に浸透しているというのは、よく考えてみれば奇妙な話ではないだろうか。


展覧会としては良い内容であることは確かだと思う。ポンピドゥセンターのコレクションがまとめて見られるため、質、量ともに素晴らしい。これは特筆しておきたいのだけれども、国立新美術館での展示としては意外なくらい気が配られた展示になっている。私は国立新美術館の開館以来、その成立過程と即物的黒川紀章による建築は批判してきた(参考:id:eyck:20070307及びid:eyck:20070309)。同時に現代の若手作家を取り上げる企画をしたり、充実したピカソ展、あるいはモネ展(参考:id:eyck:20070709及びid:eyck:20081209)を開催する姿勢は良いと思っていた。だが、それらの企画において毎回気になっていたのが雑な展示で、いつも大きな空間に沢山の作品を並べる、その手つきがいかにも無神経だったと思う。モネの時などは背景の壁紙の安っぽさがやたらと印象に残ったりした。それが、今回の展示では、作家・作品数の多さにもかかわらず、明らかに酷い展示はなかった。写真作品の背後にパネルを立てるような配慮は成功していた。


また、出品作には美術史あるいは美術批評で重要視される作品が多く、教科書的復習にもなる。例えばロザリンド・クラウスが「オリジナリティと反復」で取り上げるジャコメッティの初期の彫刻(「オリジナリティと反復」の図版に出て来る作品ではないことに注意)が見ることができたのは収穫だった。ピカソ「横たわる女」がさりげなく展示されているのは心憎い、と言っていいし、ヘルベルト・バイヤーのセルフ・ポートレートといった、シュルレアリスムにおける重要なメディアである写真も多くの佳作が来ている。また、ジャクソン・ポロックの「月の女が円を切る」(1943)を見ることができたのは、今年の年末に愛知で、年明けには東京で開催されるポロック展に向けてよい準備だった。藤枝晃雄ジャクソン・ポロック」において適切に価値判断されているように、芸術作品としての質は低いが、ポロックの後の代表作を考える上で踏まえておくべき作品だろう。ブニュエル「アンダルシアの犬」といった映像作品が見られるのも面白いし、今は失われたブルトンのアトリエを記録したDVDが見られるもの貴重だ。


端的に美術および美術史に興味がある人、学生、作家にとっては必見なのではないだろうか。ポンピドゥに行くことができる人には話しは別だが、もしそうでないならば、国内にいてこの展覧会を見逃すことはちょっとありえないとすら思う。会場終わり、第二次世界大戦後のところに来て、流石に水準が落ちてくるのはむしろこの40年以上に及ぶ運動のある種の必然であって(この頃のマッソンとかマッタは明らかに弛緩している)、こんな中でむしろレベルを維持しているミロなどは、もはやシュルレアリスムから離れ明らかに独自の価値観を確保していたが故と理解できる。序盤のキリコ、デュシャン、中盤のエルンスト、ダリ、タンギーは粒が揃っている。マン・レイの数学模型をモノクロ写真で撮ったものは無論杉本博司に接続するし(しかしこんな良い作品があるなら杉本の写真など-そのニヒリズムを差し引いても-不要ではないか)、当時多く刷られた印刷物の資料も多数展示されている(いかにも安く作られながらまったく貧乏くさくないグラフィックデザイン)。


そういった、数々の佳品、傑作、あるいは美術史的に重要なものを見ながら、しかしやはりどこかに私は「わからない」という感覚をぬぐうことができない。例えばマン・レイの、デュシャンの「大ガラス」の上に積もったほこりを捉えたシャープな写真作品と、「サン=ジャン=ド=リュズの夜」と題された、キャンバスに油絵で描きつけられた、稚拙な、しかし明らかに異様な力のある作品の不連続性に思わずたじろぐ。またアーウィン・ブルーメンフェルドの騙し絵的写真「鏡の中のトルソ」(1937)と、マグリットの「陵辱」(1945)が共通して「視覚的駄洒落」(女性の身体が顔に見える)という同じ主題を変奏する、その“衝撃”の質が見えない。こういう視覚的「面白さ」が、多分日本での彼らのポピュラリティにつながっているのだろうとは想像できる。しかし、ここにあるのはけして「ユーモア」ではない。むしろ肉親の顔写真に放尿するような生理的衝撃があったはずで、しかしそれが断固として行われなければいけない衝迫が、ヨーロッパにはあったのだ。この緊張が想像されえない地点においてしか、日本の「シュルレアリスム人気」は醸成されない。


ニーチェが「権力への意志」の中で芸術を特権的に称揚し「芸術の本質はあくまで、それが生を完成せしめ、それが完全性と充実を産みだすことにある」と書いた、その動機は神の死、すなわち超越論的理性の終焉への不安への抵抗にあると私は思う。デカルトの記述した幾何的理性、全てが質ではなく空間的、量的広がりの中にだけ展開する形而上的理性というフィクションの機能不全に伴って引き起こされたプラトン-アウグスティヌス的「知性」の転覆は、当然アリストテレス-トマス・アクイナス的「生物性」へと近似するが、その生物的な力を担保する神はもう導入できない、という近代の困難。この困難の克服はそもそも一神教的「神」を持たなかった日本人が想定するほど簡単なものではなかった筈だ。中沢新一浅田彰との対談(「20世紀文化の臨界」青土社)の中でシュルレアリスムの重要な源泉であったバタイユについて「バタイユが注目したのは、サクリファイスの持つ、決断してゆく、超越してゆく、ジャンプしてゆくという側面だった。これが彼の思想をすぐれてキリスト教的なものにした」というとき、中沢はかなりの程度シュルレアリスムについても語ったことになったのではないか。繰り返せば私はシュルレアリスムがわからない。が、この「分からなさ」の由来はよくわかる。私は要するにキリスト教がわからないのだ。シュルレアリスムとは、バタイユがそうであった意味においてキリスト教的、カトリック的なのではないか。シュルレアリスムキリスト教/カトリック的なるものに対し「転覆しようとする所作においてほとんど保持している」(前掲書/浅田彰の発言)ように見えるのだ。


このことは、戦後美術にまで深く影響しているだろう。クラウスの度重なる告発どおり、抽象表現主義以降のアメリカ・フォーマリズム美術の根底には常に取り除かれざる基底としてシュルレアリスムが存在したし、それはポロックだけではなくドナルド・ジャッドの潔癖性にまで延伸している。それどころか、コンセプチュアルアート以降、突如隆盛したニューペインティングという動きは、クッキやクレメンテを見れば明らかなように、フォーマリズムおよびその言説が抑圧してきたシュルレアリスム的なものの再興だったことは明らかだ。日本のまったく表層的な「ニューペインティング」に欠けていたのはこの部分で、とにかく日本は徹頭徹尾「超越論的理性」たる神との相克に基づく美術運動のインストールに失敗し続けている。勿論そんなことは最初からできるはずがないのだが、問題はいまだにそのことに無自覚な点だ。例えば今、岡本太郎の再評価の動きが各所で見られるが、岡本こそ日本におけるシュルレアリスム=「超越論的理性」たる神との相克の無意味さの象徴と言っていい。シュルレアリスムの全盛期にパリに赴き、ソルボンヌで学び、ダリと交友し、当時のムーブメントの中核を十分「知的に理解」した岡本に絶対的に欠けていたのがバタイユバタイユ性で、重要な根本が抜けていながら西欧美術の観念の表層的意匠だけを日本で演技し続けた岡本の虚無を、今の「岡本再評価」に沸き返る人々が捉えることなどありえない。


無数の賛辞がささげられながら、岡本太郎の影響下から出発する作家など出ようがない。あの空虚から作品を開始することなど誰にもできないしするべきでもない。岡本の不可能性は日本における「神との相克」の不可能性でありそれは構造的なもので個々人の資質の問題ではない。岡本が日本の「深層意識」たる縄文に惹かれたのはごく自然だったが、それは岡本が「芸術家」であるよりは悲しいまでに「知識人」だったからであって、そのような「意識的無意識」の導入には無理がある。今回の国立新美術館シュルレアリスム展は、この「無理」をいかに痛切に受け取ることができるかの試金石になっているように思う。